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要らない票 [政治]

 予算委員会の質疑中、秘書官が首相にメモを差し入れるという普通の行為に対し、立憲民主党の福山哲郎が「いらない紙、入れるな」と怒声を浴びせたことが話題となっている。もはや追及の姿勢ばかりでなく、論理性や倫理性も破綻しているとしか言いようがない。
 しかし多くの人が承知しているように、同様の破綻による与党批判は今に始まったことではない。
 なぜこんな批判が成立すると思っているのか、本気で頭を悩ませたことをひとつだけ挙げておく。 二年前に熊本地震が起こったときのこと、4月14日の大地震を受けて、首相側は16日に現地視察することを15日に発表した。ところが16日に日付が変わった深夜から朝にかけて震度六から七の強い地震が続けて発生したため、視察は中止された。現場の混乱を考えれば当然のことである。
 だが、当時の民進党所属で現希望の党所属の大西健介は、「行くと言っておいて次の日に撤回するなら、最初から行くと言わなければいい」と首相を批判している。
 こういう批判がなぜ成立すると思うのか、本気で理解できない。ひとつあるとすれば、一国の首相たるもの、視察予定日に再び大地震が起こるかどうか予見できる特殊能力くらい持っていなければならない、持っていないのは首相失格である、とする理屈だろうか。
 反則してでも相手選手を潰せと指示したとされる某監督が世間的に槍玉に挙がっているが、一大学の一チームの監督どころか、国会における議員、学費ではなく税金によって理不尽に首相秘書官を怒鳴りつけるような議員たちの活動が支えられていることの虚しさは、半端ない。

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銀行と個人情報 [雑感]

 以前に書いた話だと思うが、今から十五年かそれ以上かもしれない昔のこと、近所のATMを利用していたとき、隣の機械にカードが挟まったままとなっているのに気づき、銀行に連絡したことがある。
 機械は二台しか設置されてなく、その場にいたのは私ひとりだった。備えられている電話による指示に従って室内のボックスにカードを入れておしまい、の筈だったが、数日後、銀行から電話が来た。
 連絡した際にこちらの名前と電話番号を求められており、その情報によりかかってきたもので、用件は件のカードは無事に持ち主の元に渡ったこと、そして持ち主が礼をしたいので連絡先を教えて欲しいと言っているがどうしますか、ということだった。いや、礼には及びませんから、と断った。
 しかしその数日後、カードの持ち主という人物から電話が来た。銀行に頼み込んでこちらの番号を教えて貰ったという。用件はやはりお礼の品を送るから住所を、というものだったが、固辞して電話を切った。今よりも個人情報管理の意識が低かった時代だったのかもしれないが、それでも当時は銀行の甘い姿勢に憤りを覚え、実行はしなかったが抗議しようかとも思ったものである。
 さて、つい先週のこと、同じATMを利用していて、同様の事態になった。
 隣の人のいない機械から繰り返しメッセージが流れ、カシャカシャと音がしている。とりあえず停止だか中止だかのボタンを押してみたら、カードが吐き出されてきた。なので以前と同じく、電話による指示に従ってこちらの名前と電話番号を伝え、室内のボックスに投入した。
 それから一週間たつが、何の連絡もない。いや、お礼の電話ではなく、銀行からの電話のことである。
 こちらの個人情報をわざわざ伝えているのだから、カードが本人の元に戻りました、という反応くらいはあっていいのではなかろうか。それとも何か事情があって未だ戻っていないのだろうか。

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奇妙な電話 [見聞]

【こんなことを見聞きしたシリーズその7】

 電話が鳴ったので取って、もしもしと話す。いつものようにこちらの名前は伝えない。
 すると、相手は上品そうな中高年女性の声で「宮村さんですか?」という。
 いいえ違いますと答えたら、「宮村さんじゃないんですか?」と再び聞かれる。
 再度、違いますよと答えると、「あのー、奥さんいらっしゃいますか?」という。
 少し怒り気味に、違いますよ、と言うと、相手は無言になった。
 それで、もしもし?と声をかけたが返事はなく、ややあって無言のまま切られてしまった。
 思わず受話器を叩きつける。

 怒りが収まって、今の電話はいったい何だったのかと疑問に思う。単なる間違い電話なら、こちらが宮村さんじゃないと分かったのに、奥さんを出すよう求めるのは妙だ。ということは、これは間違い電話ではなく、主婦向けの何かの勧誘だったのかと考えられる。しかし、こちらは間違ってかかってきたことを理解しているから、奥さんがいたとしても替わるわけがない。間違いであろうと勧誘であろうと、意味不明であることに変わりはないのである。
 間違い電話だとしたら、奥さんを電話口に出したくないために、宮村ではないと私が嘘をついていると相手は判断した可能性もないわけではない。それはそれで極端な変な思い込みだ。
 勧誘の電話だとしたら、適当な番号にかけていて、こちらも最初に名乗らなかったから名前がわからず、勧誘だとすぐにばれることを避けるために適当な苗字を出してみた、という可能性もないわけではない。しかし、やはり上記のように、奥さんに替わるわけもなく、無意味だ。
 ひとつだけ確かなことは、どのような性格の電話であろうと、謝罪も何もなく無言のまま切ってしまうという人を不快にさせることを平気で行う、小さなテロリストめいた屑のようないい年の大人がいる、ということだけである。少し前に、いきなり電話をかけてくるのは非常識だ、という極端な主張が話題になっていたが、少しだけ共感できなくもない。

 追記。件の間違いもしくは勧誘の電話があった五日後の朝八時半頃、電話が鳴った。こんな時間にかかってくることなど滅多にないから、実家でなにかあったかと覚悟を決めつつ受話器を取る。すると電話ではなくファックスである。今どき誰が何の用で送ってくるのかと訝しんでいると、印字されたのは某商社からの発注書で、間違えての送信だった。用紙をよく見ると、本来の宛先の会社名に「宮坂」の名がある。先日の電話は宮村さんで今回は宮坂さん。何か関係があるのかと思ったが、そこに記載されている宮坂さんの電話とファックスの番号は異なるため、件の中高年女性による電話とは無関係だろう。とりあえずは某商社に間違えてますよと注意の電話を入れ、これについては解決した。
 それにしても、場合によっては一ヵ月間鳴ることもないようなうちの固定電話に、間を置かずに宮村さん宛の電話と宮坂さん宛のファックスが間違って来るというのは、どういうことだろう。

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月がとっても青いから [国語]

 月が綺麗ですね、と女性に語りかけるのは愛の告白だと夏目漱石が言った、という曖昧な雑学を確認しようとネット検索してみたら、新しい発見がふたつと、苦笑させられることがひとつあった。
 発見のひとつは、正しくは(というより元ネタは)月が綺麗云々ではなく「月がとっても青いなあ」というフレーズだったということで、もうひとつは、この話の根拠が不明確、つまり本当に漱石がこんなことを言ったのかどうか確実な証拠はないということだ。「にぐるたの物置」というサイトにまとめられていた検証によれば、今のところこの話を紹介しているのは1977年に書かれた豊田有恒のエッセイを遡ることはなく、漱石研究の専門家も事実確認できないらしい。
 そして苦笑させられたのは、SF作家によるこの創作もしくは誤解が次第に拡散し、それでも「と言われている」「らしい」と多くは推量の表現によって様々な場面で引用されている中、某脳科学者が断定的に紹介していることである(二つの文章に引用され、ひとつでは推量だが、もうひとつは断定で根拠が示されることはない)。
 そういえばこの脳科学者には、思い込みや偏見の発信による炎上が多い。おそらく専門とする研究においては合理的論理的思考を貫いているのだろうが、研究以外の場面では凡庸もしくはそれ以下だったりするわけだ。この人に限ったことではなく、あらゆる物事に対して常に論理的に思考している学者なんてほとんど漫画の世界にしかおらず、周りもそれを誤解して門外の分野についての意見を求め、当人も得々と語っていたりする。理系は論理的で文系は非論理的というネットでよく見られる決めつけもまた、まったく浅薄な思い込みにすぎない。

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根無し毒草 [報道]

 抑圧され独立を希求している民族が自らの文化や伝統に対して持っている矜恃は尊重されるが、すでに独立している民族が持つそれの場合は、国粋主義だ排他主義だと批判される。
 このような二重規範、ダブルスタンダードはさまざまな事象に対して、至るところにおいて見られるものだ。相手次第で、主導的とする賛嘆と強権的とする批判、民意だという正当化と数の暴力だという否定に分かれたりする。資産家の政治家を嫌みたらしく見ていたマスコミ人が民主党政権成立初期の頃、こぞって鳩山某のことを育ちがいい品があると持ち上げていたことは記憶に新しいし、最近では天下り斡旋で退職に追い込まれた某前事務次官が政権批判に使えると見るや、後輩の面倒見が良いと手の平を返して持ち上げたりしている。
 相手次第で変わることのない評価が信頼できる客観的な評価であり、そのような判断を下せる人間こそ、いわゆる頭の良い人だろう。そんな人間をマスコミ界や野党に求めることは無理難題だと、今の狂乱ぶりを見ればもはや解りきったことだが、その場しのぎで自分勝手な評価を弄んで国を混乱させる手法が蔓延っている限り、マスコミにも野党にも、そしてこの国にも明るい未来はない。

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捧持と棒持 [国語]

 捧持という言葉の意味は、両手で恭しくささげ持つこと。ささげを漢字で書けば「捧げ」。パソコン環境によっては見にくいこともあるだろうが、手偏に奉であり、木偏に奉の「棒」ではない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、ネット検索してみたら、「捧げ持つ」捧持と書くべきところを、「棒を持つ」棒持と間違えている文章が多いことに気づいたからだ。用語解説の類のページで、棒の字を用いて「ほうじ」と読ませ「ささげ持つこと」と説明していたりする。または由緒ある著名な神社のサイトでも間違えているところがあり、捧げ持つことが大切な作法でありながらしっかりとは身についていないのだなと苦笑させられた。
 ちなみに抱腹絶倒という言葉も、本来は捧腹絶倒と書く。残念ながら私の使っている日本語入力システムに正しい方の言葉は入っていない。

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狂気か戦略か [政治]

 ここ数年のマスコミや野党政治家や左派評論家が、民主的に選ばれたはずの政権を批判するために民主主義を否定するような狂った言説を吐くようになったと思ったら、今度は政権批判のために、政治家ではない首相夫人がどんなネット記事に「いいね」を押したかを問題視するという人権無視を始めたようだ。
 表現や思想の自由、また特に女性や妻という立場の人権の尊重を声高に主張する、いわゆる人権派の人たちは、こんな暴挙に対して何も言わないのだろうか。
 確実な証拠なしでも罪を認めるまで罵倒し責め続けて止まない魔女裁判がこの二十一世紀の日本に現出している事態を、自分たちの気にくわない人間が悪魔の証明を強いられることは別に構わないと思っているのなら、何も言わないのだろう。
 こんな短期間で、元学園理事長や元事務次官を敵と見なして批判したり、味方と見なして擁護したりと、もはや理屈の整合性などお構いなしで政権批判に利用するマスコミや野党政治家たちは、自分たちがどのように見られているのかについては無頓着なのか、それともわかっていて無視を決め込んでいるのか、はたまた文字通り狂っているのか。
 そこにあるのが恥知らずな策略であれ狂気であれ、不幸な状況であることには違いない。

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の(方)が [国語]

 乃木坂と欅坂のどっちが好きかとの問いに、「乃木坂のほうがいい」と答えるなら、好みの良し悪しはともかく、日本語としての問題はない。
 乃木坂と欅坂のセンターのどっちが好きかとの問いに、「欅坂のがいい」と答えるなら、少しぎこちないとはいえ、それでも日本語として間違ってはいない。このような比較の場合、共通する「センター」という言葉もしくはセンターを指す「ほう」を略して「~の(センター/ほう)が~」とできる。つまり正確に答えるなら「欅坂のセンターがいい」または「欅坂のほうがいい」となるが、この場合は「欅坂のがいい」でもひとまず問題ない。
 しかし、最初に挙げたような、略せる共通の項目がないような問いにも、ほう(方)を略した「~のが~」という表現が最近は目立つような気がする。
 共通項が明示されなくても「ほう」を略すことはある。たとえば、どんなカレーが好みですか、という問いなら、甘口のカレーとか中辛のカレーといった選択肢が存在しているのは確かだから、共通する「カレー/ほう」は省略し、「とびきり辛いのがいい」と答えることができる。だが、カレーとラーメンのどちらが、の問いに「カレーのがいい」と答えることはできない筈である。
 このことを最初に強く意識したのは、『よつばと』七巻を読んでいたときだ。共通項もなく単純に羊とヤギを比較した場面で、「俺は羊よりヤギのがいいな」という台詞が出てくる。ヤギが、またはヤギの方が、の誤植かとも思ったが、意識し出すと掲示板のような短い言葉の遣り取りではたまに使われている表現だとわかった。
 上記の漫画の台詞を喋っているのは軽薄なキャラの人物だから、わざとそうしているのかもしれない。にしても、若い世代ではこのような言葉の変化が進みつつあるのか、それとも以前からあったのか、または地域性があるのか、国語を専門としていないからあまり詳しく調べようとは思っていないけれども、なんとなく気になっている。
 
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もし~だとしたら [報道]

「もし~だとしたら、ひどい話だ」「もし~だとしたら、絶対に許さない」という、仮定の話から断定的に非難へと結びつける表現は、ずいぶん以前から掲示板やブログなどでよく見かけられる。だいたいにおいてほんの数行の書き込みだから、仮定にどれだけの説得力があるのか提示されることはなく、結果として仮定に誤りがあっても後に訂正されることも滅多にない。煽りや釣りの類としての面白半分か、もしくは本気の書き込みなら単に知性の足りない子供じみた感情的な物言いだなと気になっていた。
 それがここ数年、大手の新聞テレビ等でも、「もし~だとしたら大問題だ」というフレーズが氾濫しているように思える。政治家が政敵に対してこのような表現によって批判することはよくある。それはそれでまた批判の正当性が証明されない限りは、印象操作を狙っただけの幼稚な悪口に過ぎないもので閉口させられるが、同類の感情的な語り口が大手マスメディアからもなされるというのは、呆れかえるという表現だけでは済まされない状況といえるだろう。
 強いて言えば、呆れるというより恐怖に近い。

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原武史の言説 [皇室]

 神の実在を信じるとか、その神に願いを訴えかけたり感謝を捧げるといったことはもちろん、あくまでも信仰の問題で、極端に反社会的な思想や行為でない限りはたとえ科学的合理的な精神に反していようと、他人から批判される筋合いはない。
 にもかかわらず、出血は神の嫌がることだとする考え方に対しては、なぜか性差別の問題や科学的合理的な見地から「そんな迷信に従うべきではない」といった論調が起こったりする。
 信仰の異なる者の間で見解がぶつかることはある。一方が自分たちの理屈に基づいてもう一方の見解を否定するような独善的な態度は、原理主義的傾向の強い集団に限らず今でもよく見られることのようだ。例えば清めの塩について、ある神道研究者がカトリックの指導的立場の人物に理由を説明したところ、「それはいけませんね」と否定的反応が返ってきたという。また浄土真宗で清めの塩を迷信だと否定することはよく知られているが、それを「迷信」と説明すること自体が他の世界観や信仰への断罪を意味している。
 イエスは神の一人子で救世主であるとか、念仏を唱えれば救われるといったことは、それを信じている者にとっては迷信ではないことと同じように、清めの塩も赤不浄も、そういった世界観の中に生きている人間にとっては迷信ではない筈である。
 ただ、より問題なのは最初に提示したように、信仰上の見解の相違ではなく、科学的合理的な見解もしくは何かしらの思惑から特定の考えを迷信として葬ろうとする論調であろう。
 最近では日本政治思想史の原武史氏が、「『血の穢れ』の問題」が皇室にあり、「そこにメスを入れようとしない限り、女性天皇や女系天皇に関する議論は足元がおぼつかないままだ」(NEWSポストセブン)と言っている。メスを入れるという表現から、赤不浄の考えを撤廃すべきと考えているのは明らかだが、この禁忌の存在によって「絶対的な『男女の差異』を認めてしまっている」と説明していることからも、信仰や伝統の問題には目もくれず、ただ男女平等という近代的価値観によって皇室祭祀や皇位継承の問題を考えようとしていることがわかる。
 性差別はよくない、といえば今や誰でも賛成することだろう。しかし根底にあるのはそのような差別なのではない。そもそも出血を穢れとするのは、それが死への過程であり、死を連想させるからである。血そのものが穢らわしいわけでもなければ、月経のある女性が穢らわしいわけでもない。また神社を参拝する際には手水舎で手と口を浄めるのが慣わしだが、「祓い浄めを求めるのは参拝者を穢れた存在とする差別だ。手水舎を撤廃せよ」と主張する者がいるなら、神社側としては、どうぞお引き取り下さいと言うしかないだろう。
 この原という研究者は、明治時代末の宮中に仕えた山川三千子の『女官』(講談社学術文庫、2016年)に、「宮中の『闇』をあぶり出す」という題目の解説を載せている。これは本書を読んでみればわかることだが、こんな強烈な表現が用いられるような陰鬱な話の本ではない。今から百年ほど昔の明治大正期の特殊な世界ゆえに、多少は窮屈に縛り付けられている物悲しさはあるが、現代の民間でも、学校や会社など人が集まるところではどこにでも見られるような人間関係の問題が浮かび上がるだけで、むしろ明治天皇の人間らしい言動が知られる、そういう意味で興味深い本である。
 闇をあぶり出すという表現ひとつを取っても、この研究者が皇室に対していかにバイアスのかかった見方をしているのかがよくわかる。

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