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ムシの夏 [雑感]

 数年前の夏、死番虫という体長数ミリの虫が部屋に大発生し、ガムテープによる捕獲に追われていたことがあった。大発生とは言っても一度に現れるのではなく、毎日毎日どこからともなく現れるので、すぐに元を断って殲滅させることもできず難儀した。古い木造アパートだから、部屋というより建物内部のどこかで繁殖していたのだろう。
 ある夏にはカナブンが発生したことがある。ゴミ袋の中でがさごそしているからGかと思い、恐る恐る確認したらカナブンで、どこから入ってきたのかと不思議に思った。すると、いつも閉めたままの天袋の中からもカリカリと音がし、やはり慎重に確認したら生きているカナブンが二匹、死骸で一匹がいた。これも外から入り込む筈はないので、建物の中で成長したのだろう。
 これらの虫は甲虫であり、またGのように素早くはないから捕獲は簡単だった。
 この夏、部屋もしくは建物の中において、紙魚が大発生中らしい。
 死番虫と同じでたまに見かける虫だが、ここのところ頻繁に現れている。体長十ミリほどで銀色のエビのような、あるいは小さく細いフナムシといった感じか。やっかいなのは、とても素早い上に、柔らかいのである。死番虫のときのようにガムテで捕獲しようにもあまりくっつかず、力を入れると潰れてしまう。畳の上を走っている紙魚をうまくティッシュか何かで押さえたとしても、潰れ出た体液で畳に染みを作ってしまうことがあるのだ。
 こういう小さな虫の相手には、以前は小型のパーツクリーナーを用いていた。しかし使い果たし、もはや同じ大きさのものは売っておらず、大きい缶だと勢いが強すぎて虫を吹き飛ばしてしまう。そこで次に使えそうだと常に手元に置いているのは、アルコール除菌のスプレーである。これは先日、飛んでいる蚊にかけるとすぐに落下し、即死はしないが退治に使えた。おそらく紙魚にも有効だと思われるが、広い範囲に吹き出てしまうため本やプリントなどの紙が濡れてしまうような場所では躊躇われ、今のところ試す機会はまだない。そして小型のGにも有効だろうが、こちらに関しては試すことのないまま、この蒸し暑い夏が終わってくれることを強く期待している。

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子供思いの父親 [雑感]

 文部科学省の局長が東京医科大学に便宜を図り、見返りとして自分の子供を合格させて貰ったのではないかという事件。
 この容疑者が、大学に便宜を図ったのは安倍政権のためになると思ったから、と何かこじつけて弁明でもしようものなら、きっとマスコミと野党が擁護してくれる。元凶は安倍で、この局長は被害者であり、子供思いの立派な父親だと讃えてくれることだろう。
 そんな妄想があながち荒唐無稽とも思えない昨今である。

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夏越大祓の変 [雑感]

 六月三十日、夏越の大祓ということで、毎年恒例の某神社に向かう。
 以前にも書いたが、なぜかこの参拝に際して「変な人」と遭遇することが多い。
 今年は境内にて遭遇した。
 境内で行われている大祓の儀を参観しているとき、背後から妙な声が聞こえてきた。東南アジア系の外国人が無遠慮に会話しているのかと最初は思ったが、発言者は一人で、言葉というよりは赤ん坊の喃語に近い。しかしその喃語っぽい発声の中に時折、「おい」「なんだ」「まて」といった文句がましい日本語の単語も混じっているように聞こえる。そんな言葉をひとり発し続ける男が自分の右横に来た。
 儀式に集中したいのに参ったなあと思っていたら、自分の左横にいた人が、うるさいよ!と注意した。ああ、頭のおかしな人にそんなことを言ってもしょうが無いのに、逆ギレでもしたら俺が何かされるかもしれないのに、と少し緊張したが、叱られた右横の男は静かになった。
 注意を理解し、従うことができる精神があるということと、ひとり異常な発言を続けていたこととの関係を不思議に思いつつ、ほっとして儀式を眺めていられたが、やがてまたその男は少しずつ言葉を発し始めた。しかし儀式は無事に終わり、神職たちは終了の奉告のため拝殿へと入っていく。
 その様子を眺めているとき、すでに先ほどと同じように異様な発言を続けるようになった男を正面に目にした。五十過ぎの哀しげな顔をし、手には授与品と思しき袋をさげている。まさかこんな発言をしつつ御祈祷を受けてきたのか、と驚いた。拝殿前にいる男のそのときの言葉には、「しね」「ころす」といった物騒な言葉も混じっており、周囲の参拝者たちも、ぎょっとして身を引いている。
 しかし、そんな言葉とは裏腹に、儀式の終了と共に男は何事もないように境内を後にする。言葉だけが異常で、行動には何も問題はないのである。神社に参拝し注意に素直に従う精神と、罵倒の文句を吐き続けさせようとする悪しき精神とのせめぎ合いに生きている、哀れな人なのだろうか。

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墓穴を掘る [雑感]

 今から五年前の八月に迷惑な勧誘電話についての記事を書いた。それを次に再掲してみる。

 一昨年の夏、(略)電話による墓地セールスが、断っているにもかかわらず何度もかかってきて、「これ以上しつこいと訴えるぞ」とまで声を荒らげたことをここに書いた。同じ会社からの電話がまた来た。もう我慢ならないのではっきり書く。「いしのや」という名の会社だ。拒否しているのにそれを無視して電話をかけてくるのは、もはや犯罪的である。自宅を仕事場としている自分にとっては、営業妨害にも等しい。相手に文句を言ったところ、「もうそちらの番号にはかけないようにします」と謝ったが、その台詞は前回も聞いた。つまり言葉だけであって、そんな措置は少なくとも前回はしていなかったということだ。

 墓地セールスと書いているが、墓石販売がより正確かもしれない。五年前より以前から何度もかかってきているわけで、同じ会社に対して電話越しにブチ切れたのは少なくとも二回である。ただ、そちらにはもうかけない、という二回目の言によって本当に対処を施したのか、以降はかかってくることはなかった。
 しかし、五年間の空白期間を経て、三回目のブチ切れを体験することになる。
 先日の午前十時頃、電話が鳴った。田舎の老父母に関することかと覚悟を固めつつ受話器を取ると、五年ぶりの「いしのや」だった。
 今まで何回かけてきていると思ってるのかとやや抑え気味に詰ると、相手は平然と「私は初めてかけております」という。対個人ではなく対会社で話していることにも関わらず、何という言いぐさかと頭に来て、あんたじゃなくてあんたの会社からということだよ、何度も何度も迷惑なんだ、いい加減にしろと声を荒らげてしまう。相手は謝罪の言葉を口にするが、とくに恐縮するでもなく淡々とした口調であるために、受話器を叩きつけた後も怒りは収まらない。
 七年前および五年前の言葉が嘘だったことは判明している。おそらく単に番号順にかけているので、データから除外するといった作業はできないのだろう。しばらくすればまた、何も知らないバイトの女性が何食わぬ口調でかけてくるかと思われる。
 商売をする上で逆効果、自ら墓穴を掘っていることに気づかないのだろうか。それとも、会社が存続しているからにはこれでも効果を発揮しているのか、謎である。

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銀行と個人情報 [雑感]

 以前に書いた話だと思うが、今から十五年かそれ以上かもしれない昔のこと、近所のATMを利用していたとき、隣の機械にカードが挟まったままとなっているのに気づき、銀行に連絡したことがある。
 機械は二台しか設置されてなく、その場にいたのは私ひとりだった。備えられている電話による指示に従って室内のボックスにカードを入れておしまい、の筈だったが、数日後、銀行から電話が来た。
 連絡した際にこちらの名前と電話番号を求められており、その情報によりかかってきたもので、用件は件のカードは無事に持ち主の元に渡ったこと、そして持ち主が礼をしたいので連絡先を教えて欲しいと言っているがどうしますか、ということだった。いや、礼には及びませんから、と断った。
 しかしその数日後、カードの持ち主という人物から電話が来た。銀行に頼み込んでこちらの番号を教えて貰ったという。用件はやはりお礼の品を送るから住所を、というものだったが、固辞して電話を切った。今よりも個人情報管理の意識が低かった時代だったのかもしれないが、それでも当時は銀行の甘い姿勢に憤りを覚え、実行はしなかったが抗議しようかとも思ったものである。
 さて、つい先週のこと、同じATMを利用していて、同様の事態になった。
 隣の人のいない機械から繰り返しメッセージが流れ、カシャカシャと音がしている。とりあえず停止だか中止だかのボタンを押してみたら、カードが吐き出されてきた。なので以前と同じく、電話による指示に従ってこちらの名前と電話番号を伝え、室内のボックスに投入した。
 それから一週間たつが、何の連絡もない。いや、お礼の電話ではなく、銀行からの電話のことである。
 こちらの個人情報をわざわざ伝えているのだから、カードが本人の元に戻りました、という反応くらいはあっていいのではなかろうか。それとも何か事情があって未だ戻っていないのだろうか。

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マナーの根拠 [雑感]

 少し前に、緑茶をお祝いの返しにしてはいけないとマナー講師が説明したことに対し、反撥の声が挙がって小さな話題となった。マナー講師と呼ばれる人たちによる適当で一方的な解説については、以前にもここに書いたことがある。
 それは神社で手水を使うとき、最初に左手に水をそそぐという行為について、その理由を「神道では左手は穢れているという考えがあるから」とする解説についてだった。
 神道、と一口に言っても、何を指しているのかは人それぞれである。これは神道を語るときのやっかいな点のひとつなのだが、紀紀などの古典に則した考えか、吉田神道や度会神道などの流派で主張される思想か、宣長や篤胤などの国学者の見解か、それとも民俗神道かなど、依拠するものによって見解は変わったりする。場合によっては大本教など近代の教団や宗教家たちの思想が「神道」の考え方だと説明されたりすることもある。
 左手が穢れているという考えは、少なくとも神道の古典に則した考えではない。どんな個人か組織が主張していたのかは詳らかにできないが、もっともオーソドックスな神道思想に左手を穢れとする思想はないと言っていい。合理的あるいは常識的に見れば、世の中には右利きの人が多いから、右手に持った柄杓でまずは左手を洗う、というだけのことだろう。
 あるいは古典に則するなら、むしろ左手は尊い側と言える。『日本書紀』の一書によれば、伊奘諾尊が左手に白銅鏡を持ったときに大日靈(正しくは下の巫が女となる字)尊が生まれ、右手に持ったときに月弓尊が生まれたという。大日靈尊は天照大神のことだから、どちらかと言えば右手より左手が尊いことになるわけだ。また別の一書でも伊奘諾尊が左眼を洗ったときに天照大神が、そして右眼を洗ったときに月読尊が生まれたともあって、左右のうちの左側が上位と知られる。もし手水の順序に理屈を付けるとするなら、左手が尊いゆえに左手を先に清める、となるだろう。
 マナーというものは一種の型であり、決まった型で一貫させるところに生まれる美ゆえにマナーは重要だと考える。しかし型としてのマナーの背景は一様ではないことが多く、何を根拠にしているのかという説明がいい加減では、せっかくの美が台無しとなる。確実でないことには口を慎むのが良きマナーといえるのではなかろうか。

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備えあれば非難あり [雑感]

 北朝鮮のテロリストが日本や韓国に潜伏していることの危険を語った研究者に対し、一部で(と思われるが正確なところは不明)非難の声が挙がっている。
 昨年、ミサイルが飛来したときの対応について滋賀県教育委員会が学校等に通知を出したとき、「戦争の危機を煽るもので子供に不安を与える」と教職員組合が抗議したという話を思い起こした。
 危機に対してどのように備え対処するかを教えるより、不安を与えないことの方が大事だとするのは、まるで健康のためなら死んでもいいといった冗談と同じ発想で正気とは思えない。こういう連中が火災避難訓練に対しても「火災に遭う不安を子供に与えかねない」と反対しているのならまだ一貫性はあるが、おそらくそんな愚かなことは主張していないのだろう。これは一部の(と思われる)連中が罹患している戦争アレルギーとでもいうもので、自身のみならず、他者の生命財産をおびやかす危険な病である。
 潜伏テロリストの危険に対する警鐘を批判するのは、某芸人が同性愛者のキャラを演じたり黒人俳優の風貌に扮したことへの批判と同じで、差別ではないものを差別だと騒ぎ立てる筋違いの言いがかりに過ぎない。
 某評論家が「韓国朝鮮系の子どもたちがどんな辛い思いをするか少しでも考えたのだろうか」と何故か子供を出しにして批判したのもやはり筋違いだ。危険への警鐘が差別に「つながる」という指摘なのだが、つなげることに差別意識が働いているのであって、つながる素材そのものの提供者には無関係な話である。素材の提供に配慮しろと言われても、たいていのものはつなげようと思えば何かにつながるものなのである。
 映画『ジョーズ』で、サメの出没を理由に遊泳禁止が求められるも、浜辺の観光に影響が出ることを恐れた有力者によってもみ消され、結果、多くの被害を出すことになる。そんな話も思い起こした。テロリストやロケットによる被害が杞憂に終わればいいが、かつて北朝鮮による拉致事件なんて嘘だと主張していた連中は、事が明らかとなっても誰も責任は取らないし、どうすれば責任を取ったことになるかも曖昧だ。もし仮に被害が発生したとして、件の研究者を批判している連中も滋賀の教職員も、責任を取ることはなく、取りようもない。おそらく、未然に防げなかった自国に外交努力が足りなかったと決めつけ批判するのだろう。

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勇気とは何か [雑感]

 イデアの話を持ち出すまでもなく、一口に勇気とは何かと言っても、いろんな立場のそれぞれの状況において中身は異なるのだろう。しかしおおまかに言うなら、自身の不利益を省みることなく、自他の何かしらの有益になるために活動する原動力を勇気と呼んでいいかと思われる。
 その意味では、勇気の花のエキスを原動力とし、とかく勇気のあるヒーローだと位置づけられているアンパンマンには、そのような設定や位置づけに関わらず、勇気との関わりは甚だ薄い。
 なぜならアンパンマンは崩れた顔を取り替えて元気を取り戻せる機能を有している。ほぼ顔しか攻撃してこない敵に立ち向かい、たとえ顔が崩れても、不利益が生じることはないのである。顔にダメージを負ったとき、すぐに回復のための助けを求め、それは必ず叶えられる。
 したがってアンパンマンのヒーロー的活動に、勇気はさほど必要ではない。自身に取り返しのつかない不利益がもたらされることを顧みずに、敵と戦ったり顔をちぎって他者の空腹を癒そうとしているのではないのである。にもかかわらず愛と勇気だけが友達だと称されるのは、愛はあるかもしれないが、勇気に関しては実に不適切ではなかろうか。以前にこのアンパンマンというアニメがあまり好きになれない理由をいくつか挙げたが、以上の点をもうひとつ加えておきたい。
 さて問題は、何も子供向けアニメの世界について冗談半分で論うことばかりではない。現実の世に勇気やら何やらで称讃されている人の場合でも、その多くはさほど賞賛に値しなかったりする。もちろんそれは非難という評価においても同様で、結局は本人の問題というよりは、良くも悪くも評価する側の思惑や投影や思い込みに大きく左右されてしまっている。人の判断はこのような「偏見」に満ちていることを常に意識して客観的に正しい評価を下すべきなのだが、みな自分の考えを客観的に正しいと思い込んでいるわけで、それはその筋の専門家でも同様である。
 先日取り上げた西部氏の本でも触れていたことだが、かつて某男性アナウンサーが癌になったことを公表したとき、なぜかマスコミはこぞって「勇気ある公表」と称えていた。しかしこれもやはり、抱えている病名を他者に知らせることそのものは勇気でもなんでもない。自身の病や目前に迫った死の運命にどう対処し取り組むか、勇気と呼んでよいものが関わるのは別のところにある筈だ。

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責任と罪 [雑感]

 自身の覚悟の表明として、「責任は私が取る」とか「罪を背負って生きていく」といったフレーズをよく耳にする。しかし、こんな言葉ほど白々しいものはない。
 何かしらの責任を取って職を辞したとしても、だいたいにおいて発生した被害というものは責任者一人ではなく周囲の多くの者に及んでいるもので、その辞職が失敗や損失に見合うとは限らないだろう。
 罪を背負うという言葉にいたっては、当人の心の持ち方といった問題に過ぎないのであって、たとえ本当にそんな意識を抱えたとしても被害や損失が解消されるわけではない。罪の意識という言葉と引き替えに責任から逃れようとする卑怯な方策としか思えないのである。
 平成になって間もない頃、不倫問題が発覚したクリスチャンの某女性芸能人が信仰の面からの問題を問われたとき、宗教は罪人のためにあるといったことを答え、卑怯だなと思った。平成が終わろうとしている近年、その芸能人は再ブレークしたようだったが、また不倫が発覚して芸能活動は収縮した。やはりそんな発言をしている人間は何も学ばず、愚行を繰り返して自身のみならず他者をも不幸にするのかと、かつて歌番組で純真そうに歌っていた顔を思い浮かべながら、しみじみと思う。

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知性の自決 [雑感]

 数日前に入水自殺を遂げた西部邁氏が平成六年に書いた『死生論』に、次のような記述がある。引用はハルキ文庫版(平成九年)による。
「私は死が間近になったとき、たぶん、自殺すると思う。(略)たとえば癌になって、(略)私がどう振る舞うかといえば、ぎりぎりまで生きているのは厄介だと判断する。限界まで堪えてしまうと、死ぬ気力もなくなったり、肉体的かつ精神的なセルフコントロール(自己制御)も利かなくなる。したがって、そこにいく前に自殺しなければならない。」
「私なりに好ましいと思う死の形態にあっさり名前を与えてしまうと、それは『簡単死』あるいは『簡便死』である。」
「簡便死はかならずしも医者の助けを借りるものではない。自殺用の薬品が法律の網目をくぐって入手できるなら、それを使用してもよい。もっと簡便な方法をというのなら入水でもいいのである。ただし、入水の場合、近所の川や海というのでは、浮かんだ死体の様子がたいへん醜いことが多く、それが遺族の気持をいっそう傷つけることになる。」
 簡便死は、いざとなれば親族に余計な苦痛を与える前に簡単に死ぬこと、延命のための薬品や装置を自力で拒否しうる段階で自分の判断により死を迎える自殺のことである。西部氏はこの簡便死という自殺によって死ぬことを公言し、自分の中に飼い慣らしつつ、本当に実行したということだ。
 親族がすぐに通報したそうだから、冷たい冬の川で確実に死を迎え、なおかつ遺体が酷くなる前に引き揚げられるよう計算してのことだったのだろう。
 しかしそれにしても、多少は何かしらに対する失望はあったかもしれないが、絶望などによってつい悲嘆のあまり死を選ぶということではなく、はじめから自分の死の方法を定めて訓練し、実行するというのは、まったく文字通り恐れ入る。同書によれば西部氏は宗教的な世界観をまったく信じてなく、死はすなわち自己の消滅と理解し、その上で、年相応の衰えはあっただろうが明晰な知性によってその知性自らの消滅を果たした。三島由紀夫の自決と同様、生きることや死ぬことについて、いろいろと考えさせられる。

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