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月がとっても青いから [国語]

 月が綺麗ですね、と女性に語りかけるのは愛の告白だと夏目漱石が言った、という曖昧な雑学を確認しようとネット検索してみたら、新しい発見がふたつと、苦笑させられることがひとつあった。
 発見のひとつは、正しくは(というより元ネタは)月が綺麗云々ではなく「月がとっても青いなあ」というフレーズだったということで、もうひとつは、この話の根拠が不明確、つまり本当に漱石がこんなことを言ったのかどうか確実な証拠はないということだ。「にぐるたの物置」というサイトにまとめられていた検証によれば、今のところこの話を紹介しているのは1977年に書かれた豊田有恒のエッセイを遡ることはなく、漱石研究の専門家も事実確認できないらしい。
 そして苦笑させられたのは、SF作家によるこの創作もしくは誤解が次第に拡散し、それでも「と言われている」「らしい」と多くは推量の表現によって様々な場面で引用されている中、某脳科学者が断定的に紹介していることである(二つの文章に引用され、ひとつでは推量だが、もうひとつは断定で根拠が示されることはない)。
 そういえばこの脳科学者には、思い込みや偏見の発信による炎上が多い。おそらく専門とする研究においては合理的論理的思考を貫いているのだろうが、研究以外の場面では凡庸もしくはそれ以下だったりするわけだ。この人に限ったことではなく、あらゆる物事に対して常に論理的に思考している学者なんてほとんど漫画の世界にしかおらず、周りもそれを誤解して門外の分野についての意見を求め、当人も得々と語っていたりする。理系は論理的で文系は非論理的というネットでよく見られる決めつけもまた、まったく浅薄な思い込みにすぎない。

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捧持と棒持 [国語]

 捧持という言葉の意味は、両手で恭しくささげ持つこと。ささげを漢字で書けば「捧げ」。パソコン環境によっては見にくいこともあるだろうが、手偏に奉であり、木偏に奉の「棒」ではない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、ネット検索してみたら、「捧げ持つ」捧持と書くべきところを、「棒を持つ」棒持と間違えている文章が多いことに気づいたからだ。用語解説の類のページで、棒の字を用いて「ほうじ」と読ませ「ささげ持つこと」と説明していたりする。または由緒ある著名な神社のサイトでも間違えているところがあり、捧げ持つことが大切な作法でありながらしっかりとは身についていないのだなと苦笑させられた。
 ちなみに抱腹絶倒という言葉も、本来は捧腹絶倒と書く。残念ながら私の使っている日本語入力システムに正しい方の言葉は入っていない。

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の(方)が [国語]

 乃木坂と欅坂のどっちが好きかとの問いに、「乃木坂のほうがいい」と答えるなら、好みの良し悪しはともかく、日本語としての問題はない。
 乃木坂と欅坂のセンターのどっちが好きかとの問いに、「欅坂のがいい」と答えるなら、少しぎこちないとはいえ、それでも日本語として間違ってはいない。このような比較の場合、共通する「センター」という言葉もしくはセンターを指す「ほう」を略して「~の(センター/ほう)が~」とできる。つまり正確に答えるなら「欅坂のセンターがいい」または「欅坂のほうがいい」となるが、この場合は「欅坂のがいい」でもひとまず問題ない。
 しかし、最初に挙げたような、略せる共通の項目がないような問いにも、ほう(方)を略した「~のが~」という表現が最近は目立つような気がする。
 共通項が明示されなくても「ほう」を略すことはある。たとえば、どんなカレーが好みですか、という問いなら、甘口のカレーとか中辛のカレーといった選択肢が存在しているのは確かだから、共通する「カレー/ほう」は省略し、「とびきり辛いのがいい」と答えることができる。だが、カレーとラーメンのどちらが、の問いに「カレーのがいい」と答えることはできない筈である。
 このことを最初に強く意識したのは、『よつばと』七巻を読んでいたときだ。共通項もなく単純に羊とヤギを比較した場面で、「俺は羊よりヤギのがいいな」という台詞が出てくる。ヤギが、またはヤギの方が、の誤植かとも思ったが、意識し出すと掲示板のような短い言葉の遣り取りではたまに使われている表現だとわかった。
 上記の漫画の台詞を喋っているのは軽薄なキャラの人物だから、わざとそうしているのかもしれない。にしても、若い世代ではこのような言葉の変化が進みつつあるのか、それとも以前からあったのか、または地域性があるのか、国語を専門としていないからあまり詳しく調べようとは思っていないけれども、なんとなく気になっている。
 
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サ入れとラ抜きと外人 [国語]

 某若手アナウンサーが、祝電を「読まさせて」もらいます、と言っていた。
 歌わさせて頂きます、とか、次に行かさせて貰います、という誤った表現は毎日のように垂れ流されている。学のないタレントならともかく、正確な日本語を操らなければならないアナウンサーとしては、まったく情けない話だろう。もちろん、読ませて、歌わせて、行かせて、であり、サ入れ表現に気をつけるべきことはアナウンサーとして基本中の基本だろうからだ。
 定着しつつあるようなラ抜き表現でさえ、話者の言葉が画面に打ち出される際には、正しくラが付け加えられている。ラ抜き表現を容認する意見が多くとも、少なくとも今のところはメディアにおいて正しいとはされていない。サ入れもラ抜きもアナウンサーなら使うべきではない。
 なお以前にも書いたことだが、話者が外人という言葉を使ったとき、テロップでは必ず外国人と訂正されている。メディアは外人の語を使いたくないらしい。おそらくこの言葉を差別語のように認識しているからだろうが、そのような認識は間違いである。外人は外国人からの単なる略語で、外国為替を外為というようなものだ。個人的には、日本人は外国人を害人と言って差別しているのだという悪評を触れ回った勢力があったのだろうと思っている。

タグ:外人
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エビスとヱビス [国語]

 ビールの銘柄でも知られる「エビス」は、戎・夷・蛭子・恵比須・恵比寿、などと様々に表記される。理由を「ヒルのコ」と書く蛭子についてだけ説明すると、日本神話に登場する「ヒルコ」が後の世に漁業神のエビスと同一視されたため、蛭子と書いてエビスと読むようになったからである。
 さて、ビールのエビスは、正しくは「ヱビス」と書く。横文字も EBISU ではなく、YEBISU である。そして漢字表記では恵比寿で、これに由来した渋谷区の地名も恵比寿となっている。
 ところが、厳密に言うなら、ヱビス・YEBISU・恵比寿といった表記は間違っている。なぜなら本来のエビスの「エ」は、まさにエであって、ヱではないからだ。そして「恵」は本来的に「ゑ・ヱ」と読む漢字だから、この恵をエビスという言葉に充てるのは間違いなのである。
 とはいっても、江戸時代には「え」と「ゑ」の区別はいい加減になっており、ゆえに恵比寿という表記も生まれているため、それを今さら間違いと判断することはない。
 言葉は時代によって変化するものだから、一所懸命が一生懸命と変化したことをもって後者を間違いと決めつける必要はないことと同様に、恵比寿の表記も一方的に間違いとは言えない。しかし言葉の変化に無頓着であってはならず、本来はこうで、それがこのように変化し、今はこうなっている、といった知識をわきまえるのは大事なことだ。そういった知識や歴史を教え、また教わったり自分で調べたりしてわきまえることが、大袈裟に言えば文化の継承と発展の基礎であり、無頓着ゆえの変化は単なる堕落といえるだろう。

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夏を詠みたる歌三首 [国語]


死番虫てふ名の虫のあまた湧く終の棲家となりにけるかも

はたとせも昔のことぞ思はるる 有り得た夏の恋しかりけり

パンツよりにょきにょき伸びたる生足の夏の女は悩ましきかな


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消えゆく思い [国語]

 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな

 西行法師の有名な歌だ。富士山が噴火するかどうかなどと取り沙汰されている昨今だが、それはまあ今回は関係ない。
 この歌を今の自分がしみじみと思うのは、やはり「行方も知らぬ我が思ひ」というものについてだ。
 西行の場合は仏教的な雑念とか無常とかで解釈されるけれども、とりあえず自分に引き寄せるならば、単に、自分の中だけのこの思いは、現実化することなく、誰にも知られることなく、自分とともに消え去ってしまう悲しい運命なのかと嘆くことと結びつく。

 届くことなき思ひのみ抱きつつわが身と魂と今ぞ消えゆく

 やっぱり自作の歌は味気ない。もっと「届くことなき思ひ」の哀しみを読み込められたらいいのだが。
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完璧と完壁 [国語]

 改めて言うまでもなく、パソコン・ワープロは普及し、至るところで活用されている。
 もはや手書きで原稿を書くなんて恐ろしく手間のかかることはできない、というところまできている。本当はこんなことでは駄目なんだよなあとは思うのだが、本題から逸れるのでその弊害等について指摘するのは止めておく。
 今ここに書きたいのは、先日、ちょっと驚くものを目にしたことだ。あるテレビ番組で、テロップに「完璧」という言葉を出すところが、「完壁」となっていたのである。完璧と完壁。もはや古典的ともいえる間違いの例だろう。加藤守雄の『わが師 折口信夫』の中に、璧を壁だと思い違いして折口から過ちを指摘される話があるが、少し前に流行った「日本語表現間違い探し」問題でも出題されないくらい定番の間違いである。
 驚いたというのは、ワープロを使わずにテロップが作成されたのか、いやいや機械を用いずにどうやって作成しているんだ?と不思議に思ったからだ。今のワープロで「かんぺき」と打てば、必ず「完璧」と変換される筈だ。あるいは使用していたワープロに何故か「完壁」という単語が登録されたか学習されたかしていて、そのように変換されたのかもしれないが、完壁と出たその文字を見ても間違いだと気づかなかったのなら、それは知識の上での間違いでもあることになる。
 そしてさらに驚いたのは、その完壁の文字のテロップが、画面の三分の一ほどの大きな文字で出ていたことだ。下準備は若い下っ端だろうが、チェックするはずのディレクターがそれを見逃していたということになる。
 まあテレビというものはチンピラのようないい加減な連中が作っていることは、身を持って知っているから、驚くには値しないといえば、そうかもしれないけれども。
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とんでもございません [国語]

 先日知ったことだが、文化庁では「とんでもございません」という表現を容認しているらしい。
 そしてその理由は、多くの日本人が「とんでもございません」という表現を違和感なく用いているから、ということだという。
 なんという無責任な判断だろう。「みっともない」を「みっともございません」と言ったり、「もったいない」を「もったいございません」というような誤用だと広く知らしめればいいというだけのことではないか。皆が使っているから良いことにしましょうと世間の趨勢をそのまま認めるのでは、言葉はますます崩れていくばかりである。
 自分は、これが間違った表現だと知ってからは使わなくなったし、使っているのを聞く度に、ああ間違っているなと気になっている。どうして間違っているなら間違っていると国は「教育」をしないのか。間違っていることを間違っていると指摘するだけでいいのだ。それでも誤用が広まるのなら、その時点で言葉の変化だと認めればいい。
 ら抜き言葉でもそうだった。これに関しては、若くもないがそんなに年寄りでもない自分は、はじめからとてつもなく違和感を覚えていた。「ら」という言葉をひとつ加えるだけでいいものを、容認されたせいかどうかは知らないが野放図に広がっている感がある。間違ってますから気をつけましょうと強制的でなくともちょっとしたキャンペーンでもやれば、少しは表現を気にする人も増えたと思えるのだが。
 さ入れ表現は文化庁的にどうなのかは知らないが、これも今のところ野放図だ。間違いだと指摘されないから間違った表現が再生産され続けているのだろう。
 言葉はもちろん時代とともに変化する。誤用が一般化した例はいくらでもある。しかし多様な変化の要因がある現代では、ある程度は言葉の保持という努力が必要ではないか。そうした上での変化なら仕方ないが、保持の努力を放棄した中での変化は、単なる堕落である。
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せいぜい頑張って [国語]

「せいぜい(精々)」に精一杯、力の限りといった意味があることを知らずに福田首相を叩いていたマスコミにも、石原都知事にも驚いたが、今でもテレビでオリンピックを振り返っての特集の中でこの発言を失言であるかのように取り上げているのには呆れた。国語力低下は若い世代に限ったことではないのだ。
「せっかく(折角)」という副詞は、ほとんどの日本人は「せっかく~したのに残念だ」といった形で、努力が報われなかったことを惜しむときに使っている。しかし、この「せっかく」にはそんな否定的な意味ではなく、「せっかく努力しなさい」といった一層の力を尽くすという意味もある。
 後者のような使い方をした場合、無知な輩から国語力を嘲笑されたりするのだろうな。せめて報道に関わる人間なら、他人を批判する前にとりあえず辞典で調べるくらいはしてくれ。
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