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大作家 [雑感]

 ある雑誌をぼんやりと眺めていたら、漢字四文字で二番目が井の字となる人名を見て、ふと某作家のことかと思い、よく見てみた。しかし違った。筒井康隆の名に見えたのだ。ああ、最近どうしているのだろう、もう齢80を越えているはずだ、元気なんだろうか。
 と、久しぶりに老作家へ思いを馳せながらパソコンを立ち上げてネットを見たら、その筒井康隆が炎上しているというニュースを目にした(笑)。
 惚けたゆえの発言ではなく、作家としてのプロ意識からの発言であることを願いつつ、いずれにしてもお元気そうで何よりと妙に安心した。変な輩に狙われたりしないかとの心配もあるが、本人はもう怖いものなしなんだろうな。

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終わりの始まり [報道]

 元からおかしかったとは言え、ここのところはその異常性があからさまになっていることが、マスコミがマスゴミと呼ばれる所以だろう。
 異常性があからさまになっているのは、マスコミの意向が反映されないネットの情報と対比できるからだが、もちろんネットのない時代においてもマスコミの偏向ぶりは指摘されている。
 たとえば紀元節論争にまつわる報道の問題があった。
 神武天皇が即位した日とされる2月11日はかつて紀元節と呼ばれ、戦後にGHQによって廃止されていたものを、やがて復活を希望する声が高まっていたときのことである。葦津珍彦の『神武天皇紀元論』(昭和33年)によれば、明治神宮外苑に八千人余りの大衆が集って賛成の決議をしたが、多くの報道機関が来ていたにも関わらず、その決議文は報道されなかった。しかし三十人余りの歴史学者が反対の集会で発した決議文は、ほとんどが全文を報道したという。
 葦津はこれを「少数派の権威を礼讃する心理と、大衆を蔑視する心理とが、極端に露呈してゐる」と指摘している。専門家でない者の意見より専門家の意見を重視するというのは、必ずしも間違いではないとは思うが、より現在のマスコミ批判に通じるのは次の指摘である。上記のようなマスコミの報道姿勢は、マスコミの人間が「それを民主主義を守るために必要なのだと信じてゐるらしい」からというものだ。
 偏向報道することが民主主義を守るという矛盾は、現在においていくつも目にしている。自分たちの意に添った事柄は報道し、そうでないものは報道しないというだけでなく、意に添ったときには民意を称え、そうでないときには多数決を疑えと論評したりする。つまりはご都合主義である。ただしこの場合、ご都合主義とはいってもマスコミ側に明確な何らかの立場がないわけではない。確かに存在している。しかしそれは決して客観的に見て在るべき民主主義ではないことは、報道の姿勢からして明らかであろう。
 偏向報道してまでも安倍内閣を倒すことが自分たちの信じる民主主義のため、と思い込んでいるのであり、おそらくそういったテロリストにも似た頭の凝り固まった連中と、特に明記することは控えるが日本を統制下に置きたい一派との結託が、現今のマスコミと野党の異様で醜悪な振る舞いを引き起こしている。
 今のところ安倍内閣の支持率がたいして下がっていないところを見ると、多くの人がマスコミと野党の異常性を認識しているのだろう。ひょっとしたら今回の騒動をきっかけに、偏向した勢力の瓦解が始まるのかもしれないと期待するのは、少し楽観的すぎるだろうか。

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凝った装幀の悲劇 [雑感]

 ここに二冊の漫画本がある。吉田戦車の『若い山賊』、そして以前にも取り上げた、しりあがり寿の『瀕死のエッセイスト』だ。この二冊は本棚に並べず、それぞれビニール袋に入れて保管している。それは何故か。
 はじめは他の本と同じく本棚に並べていた。しかし、それから十数年が経った頃、今から五年かそれ以上前のあるとき、本棚の整理をしようとして気づいた。この二冊が隣り合った本とくっついて離れないのである。つい無理に剥がしてしまったため、隣の本のカバー、そして特に『若い山賊』のカバーは柔らかい紙質のために所々破れてしまった。
 原因は、カバー表面の文字やイラストの一部に特殊なコーティングがされており、それが劣化して溶けたためである。材質はよく知らないけれども、ちょうど木工用ボンドが固まって透明になったような質感のものによるコーティングだ。
 装幀は『若い~』が小松孝代氏、『瀕死の~』がこの業界では奇抜な装幀で評価も高い祖父江慎氏である。経年劣化で仕方ないと自分を慰めつつも、普通の表紙ならこんなことにはならなかったのにと恨めしい。
 本を買うときにはそれが漫画であろうと学術書であろうとカバーの汚れや潰れがないものを丹念に選び、頁を折ったり線を引いたりもせず、どうしても目印を付けたいときは付箋に留めて綺麗なままで保存し、どんなに下らなくても二度と読み返すことがなくとも処分せずに手元に保管していたいフェチ気味で貧乏性の自分は、あれから何年も経っているというのに、この隔離された二冊を見るたびに、小さな溜息をついている。 

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気の先生 [見聞]

【こんなことを見聞きしたシリーズその4】

 十数年前の話。ある集まりに、「気」の一種の技法や治療を指導しているという女性が参加した。その世界ではよく知られた技法である。そして会が終わって打ち上げのときのこと。
 興味があったので、まずは話のとっかかりとして、気とはどういうものなのか、気を感じるというのはどのような感覚なのか、と質問してみた。するとその答は、何かを見たり触ったりしていると、気持ちいいとか悪いとか感じるでしょう、それが気です、というものだった。
 素人にも分かりやすい表現をしているのかなと思い、次に少し突っ込んだ質問をしてみた。
 たとえばここに一台の車があるとする。Aさんはかつて同じ車種にはねられ怪我をしたことがあって、今でもその恐怖からこの車を見かけると嫌な気分になる。そういった経験に由来する感覚と、その車そのものが発している気との違いは、いったいどのように区別しているのか?
 これに対する返事が次のようなものだった。

 気の先生「はあ、なんか難しい哲学的なことを考えるんですねえ。よくわかりません」

 そしてその場からさっと離れていった。上記のような区別を説明できない、もしくは考えたこともなく哲学的(!)な問題だとするような人でも教室を開いて「先生」として気を教えているという現実に、唖然とした。他にこのような人たちと話をしたことはあまりないのだが、この程度の認識しかなくて、伝授された技法を用いるだけで、本当に「気」を操っているのだろうか。何だかとてもあやふやでいい加減な感覚としか言いようがないのだが。

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マスコミリンチ [報道]

 民進党の議員が「私はこの土地取引とかそういうものに総理や夫人が絡んでいるとは思っていません。そのことは私は信じています」と言いつつ、明確な証拠もないまま、何か不正があったのではないか責任があるのではないかと総理を追求。
 曖昧にも関わらず、ただ疑惑が総理夫妻に向けられている点と問題の学校法人周辺の疑惑ばかりを垂れ流しつつ、一方でマスコミは、「トランプ大統領がまた根拠なくオバマ氏を批判」と報道。
 原理原則に従って評価を下しているのではなく、相手を見て態度を変えているのは明らかで、これが政治家やジャーナリズムの姿とは、今更ながらまったくもって情けない。
 ネットリンチという表現によって、ネットにおける異常な叩きが問題視されたりするが、マスコミはまた依然として「マスコミリンチ」を行っている。裏にどんな思惑があるとしても表面的には正義面し、不確かな根拠で他者を一方的に叩いていることは、個人と公的機関という点を除いて、ネットもマスコミも変わることはない。
 最近になって多少はマシになってきたかなと思っていたのだが、ここのところの原発や沖縄基地の問題に触発されたか、先祖返りを起こしているような気がする。

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小池都知事のファクト [政治]

 小池都知事が就任した直後の自民党都議連の連中の態度は、実にみっともなかった。頭の悪い中高生がやるような陰湿な苛めめいた対応を大の大人が、しかも先生と持ち上げられる政治家が公然とやっていて、ずいぶんと不愉快に思ったものだ。
 あんな連中には絶対に票を入れるようなことはしないと決め、その意思は今でも変わらない。だが、だからといって都知事側を支持するかというと、必ずしも全面的に応援しようとする気があるわけでもない。急拵えで出来上がったような一派の性格や方向性がいまいち分からず、信頼するに足るのかどうか心許ないからだ。
 どうしても気になるのは、政治家の本質ではなく些細なことかもしれないが、都知事がやたらと横文字を使いたがることである。もちろん今や横文字の方が通用していたり、日本語に訳せば却って理解しづらい言葉もあったりする。しかし先日の都知事の言葉には、何だかなあと苦笑させられた。「都民の皆さんはファクトを知りたいんです」という発言だ。
 真実を知りたい、で普通の表現であって、わざわざファクトなんて言う必要はない。まるでルー大柴の発言のようで、笑いを取りにいってるのかとさえ疑ったほど奇妙に聞こえた。ファクトベースで考え説明することの必要性、といったことを念頭に置いているとしても、都民の皆さんは真実を知りたいのです、で言いたいことの意味が変化したり薄れたりすることはない筈だ。
 政治家の本質の問題ではないかもしれないと書いたが、言葉と文化と思想は直結する。やはり些細なことと矮小化させてはいけないことかもしれない。自民党と戦うために共産党や民進党と手を組むといった愚行を犯すなら、はっきりと見切りを付けられるのだが。

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新宗教と信仰 [宗教]

 いつもと同じでまとまった論考ではないことを、あらかじめお断りしておく。
 オウム真理教による犯罪行為が問題となったとき、なぜ宗教学者は教団の危険性を察知できなかったのか、との批判を幾度か目にした。しかしこのような批判は的外れで、それは警察や公安の仕事だ。宗教学者はたとえ教団の教義に危険性や反社会性などを認めたとしても、世間に警鐘を鳴らして公然と批判することはない。
 もちろん明確に犯罪が行われていることを知れば司直の手に委ねる行動は取るだろうが、宗教の教義や修行というものは基本的に世俗の常識から外れているものだから、外れているからといって批判の対象とはならないし、できないのだ。神仏の存在や神仏による救いなど、通常の世俗の感覚から外れているからこそ宗教の価値があるといってもいいくらいだからである。過酷な行として知られる千日回峰行について、他者が寺院や修行者に対して非常識で危険な行為だと非難したり無理に止めようとすることは、宗教学者でなくとも憚れることだろう。まともな研究者ならば、宗教に対して一方的な価値判断を下すようなまねはしないものだ。
 しかも信教の自由という観点から、信者の神経を逆なでにすることもしづらいのである。学者でなくとも公然とは批判しにくいのが宗教の持っているやっかいなところで、思想信条の自由は公然と蔑ろにされることがあることに比べ、信仰の場合はその信者による組織の結束力による違いか、批判に対する反動の大きさゆえか、まさに触らぬ神に祟りなしといった扱いとなっている。思想信条の自由が蔑ろにされるという点については、たとえば特定の政治家や政治思想の支持者に対する犯罪めいた誹謗中傷や罵詈雑言が横行していることからも明らかだろう。
 信者の神経を逆なでにすることがとくに問題となるのは、新宗教である。伝統的な宗教がいくつも存在している社会で新宗教を信仰するには、強い信仰心が必要で、ゆえに信者の結束力も強い。伝統的な宗教組織を相手に除夜の鐘がうるさいと理不尽な文句をつけても寺側が引き下がったりするが、新宗教ならそう簡単にはいかない。へたをすればオウム真理教が起こしたような事件に巻き込まれかねないのである。
 さて、今回のこの文章において何を書きたかったのかというと、ひとつには教団というものはとにかくやっかいなものということだ。かといって自分は宗教が嫌いではなく、むしろこれほど興味深いものは他にはないと思っている。イスラム過激派のようにまかり間違えば世界を大混乱に陥らせるが、つまりはそれほどの力があるものであって、人の思想と行動、さらに自他の命にまで影響を与える。ゆえに宗教を毛嫌いする人も多いけれども、たとえ宗教がなくなったとしても別の価値観が取って代わるだけであろう。そもそも何かに祈ることをまったくしないでいられるほど人生は平穏ではなく、ニーチェの予言のように人が新しい神になるほどには、いまだ人は強くもない。
 某タレントが某新宗教教団の信者であることを公表し、それに伴って事務所と一悶着を起こしていることについて、あれこれと思うことはあるが、とかく宗教団体の関わる問題については明確な犯罪でない限り表明することは難しい。あの教団における出家の概念は通常の仏教におけるそれとは異なっている、といった客観的な論評ならばもちろん可能だけれども。そしてもうひとつ個人的な感想として強く抱いたのは、親がその信者で自身も生まれたときから当たり前に接してきた宗教とする世代が生まれているという、そんな時間の推移を目の当たりにして驚いたということだ。自分の世代にとってあの教団はまさにぽっと出の新宗教だが、そうではない大人、つまりたとえ親が信者であろうとなかろうと教団に対する認識も大きく違っているであろう世代が存在しているのである。
 批判や分析ではなく個人的な歴史を最後に書いておくと、自分は宗教もオカルトも関心の分野で、あの教祖の父親が最初に出した霊言集からしばらくは興味深く目を通し、数冊は手元にもある。まだ教団となる以前、組織化を図ってやがて教団となっていく兆しが現れた辺りで読むのを止めた。社会学的な関心事としては注目すべき状況だったのだろうが、個人的には内容の上からもこれ以上は追う意味も価値もないと判断したからである。

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オノマトペを知らない編集者 [雑感]

 もう二十年以上も前のことだから、当時ベテランの域だったと思われるその編集者はもう定年退職していることだろう。某著名出版社の編集者で、知り合いのある先生から口述のテープを起こすことを頼まれ、その際に知り合った。
 起こした原稿を編集者に渡し、やがて三人が顔を合わせて打ち合わせをしたとき、配られた原稿をめくっていて驚いた。その原稿には編集者が疑問点などを書き込んでいるのだが、文中に出てきたオノマトペという語に傍線が引かれ、?マークが付けられていたのである。それは文脈から見て決して間違った用法でも分かりにくい用法でもないから、単に編集者がその言葉を知らないためと思われた。
 原稿を初めて見る先生からすれば、編集者ではなくテープ起こしをした私がオノマトペを知らずに疑問符を付したと思うだろう。まさか編集者が知らないとは考えないだろうからだ。
 まいったなあと思ったが、あからさまに「オノマトペというのはですね」と説明するのも気が引ける。逡巡しているうちに、休憩となって先生が席を外しているとき、どうしてこの言葉に疑問符を付けているのかと編集者に尋ねてみた。するとやはりオノマトペという言葉そのものを知らなかったことが判明し、説明すると、ああなるほど、と納得していた。
 知り合いの某先生に私が無知だと誤解されたのではないかと危惧したこと、そしてオノマトペも知らないベテランの編集者がいることに驚いたことで、記憶に残っている話だ。
 ただ、その道のプロであっても、案外と知らないことはあったりするということは、今となっては理解できる。人は自分の知っていることは知っているが、知らないことは知らないからである。知っていることについて語ることはできるが、知らないことについては語り得ないので、自分が何を知らないのか明確に意識することはできないのだ。
 学生の時分には、大学教授と言えば自身の専門分野については何でも知っているのだろうと思っていたから、まれにこちらが知っていることを教授が知らないという場面に出くわすと、ああこの先生はたいしたことないんだなと思ってしまった。もちろんそんなことはない。知識の量やその使い方からすれば、はるかに教授の方が多く優れているのに、ひとつの欠けている点のみをもって優越感に浸り相手を見下していただけである。
 他者への批判や嘲笑にはこの手のものが多い。正当な批判と言い難いような批判は、このブログではしていないつもりとはいえ、何かを表明したり検討したりする文章を書く上で多少なりとも自身の傲慢を露顕させてしまうことはあるだろう。常に意識すべきことだろうが、これがなかなか難しい。

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不気味な青色灯 [雑感]

 よく通る近所の踏切は、車が同時にすれ違うことができないほどの幅の小さな踏切で、通行人も少ない。先日、日も落ちた時刻にその場所へとさしかかると、いつもと違って青白いライトに照らされていた。青色灯、ブルーライトというやつだ。
 精神を安定させる作用があるということで、自殺防止として駅のホームや踏切に採用されていることは知っている。
 だが、カラフルな光に彩られた繁華街とは違って、畑も各所にあって地味な色と光ばかりの土地の一角が青色に染まるのは、まったく異質で、違和感しか覚えない。
 違和感はすなわち不安感である。苛立った精神は落ちつくのかもしれないが、同時に不気味さに対する不安や意気消沈といったネガティブな感覚も生じてしまう。まさにブルーな気分だ。
 しかもこれまでの白色ライトとの二段構えで位置は異なるから、二種類にややずれた色の異なる影ができて、まるで輪郭のぼやけた3D画面を見ているようで気が滅入る。
 自殺防止という点では効果があるとしても、それ以外では悪影響をもたらすのではなかろうか。

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濡れたマンホールの謎 [雑感]

 本質的な中身については不明なままなのだが、ずいぶんと前から不思議に思っていて、昨年になってついに判明したことがある。
 自宅からスーパーまで向かう裏通りは、裏通りであるだけに車もたまにしか通らず、人もあまり歩いてはいない。そんな道をよく夕方に歩いているのだが、途中の四つ角にあるマンホールのひとつが、なぜかいつも濡れている。
 最初は蓋の下の湿気の問題かと思ったが、季節に関わらず、また天候にも関わらず、水をかけられたようにびしょびしょに濡れているのである。その四つ角には三つのマンホールがあって、うちのひとつだけが必ずといっていいほど水浸しとなっているのだ。
 これはいったいなんだろうと不思議に思いながらも、通り過ぎれば忘れ、わざわざ解明しようとする気も起こらないから、いつまでも謎のままとなっていた。それが昨年のあるとき、件の場所へとさしかかると、自転車に乗ったおばさんがペットボトルの水をばしゃばしゃとマンホールにかけていてるのを見た。いつも濡れているあのマンホールである。おばさんは水をかけたあとすぐに去って行った。その目撃によって、かのマンホールがなぜいつも濡れているのかという謎は判明した。
 だが、おばさんのその行動の意味まではわからない。ペットを連れていたわけではないから排泄物の処理ではないし、かけているのが普通の水なのか、それとも何かの成分が含まれているのかも、もちろん見ただけではわからない。
 一度、近くの野良猫が濡れているマンホールに近づいて鼻を寄せている場面に遭遇したが、舐めるでもなく、嫌がるでもなく、すっと通り過ぎた。
 いろんな妄想が広がる。おばさんには人には見えないものが見えていて、そのマンホールから出てこようとしている何かを浄化するために清めの水をかけて町の平安を守っているのか。何かしらの恨みをマンホールに抱いていて、早く錆びてしまえと水をかけ続けているのか。野良猫を殺すための毒水を、猫には察知されて相手にされていないにも関わらずしつこく撒き続けているのか。
 これからも真相はわからないままだろうし、おそらくわからなくてよいことなのだろう。こんな文章を書き続けていることと同じように、他人には理解できないことであっても、人はあれこれと強迫観念に似た行為を飽きることなく続けるものなのである。

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