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学者への誤解 [雑感]

 学者という立場の人たちは専門的な知識には豊富だが、それ以外のことに疎く浮き世離れしている、と評されることが多い。しかしこれはまったくの誤解だ。
 学者といえどもほとんど一般の社会人と変わらない。どんな仕事をしていようと、自身が関わっている仕事に関した知識を学んでいる。学者も同じように自身の研究分野に関する知識を学んでいるに過ぎないわけで、その内容が一般の人たちには理解されにくいことから、なにやら自分たちとは違う特殊な人種だと誤解されているだけである。
 学者には奇人や変人が多いとも思われているが、一般の会社員でも同様だ。パワハラやセクハラも、学者の世界であろうとなかろうと見られるものである。
 会社員が才能だけでなく、人心掌握に長けていたり、うまく立ち回ることによっていい地位を得られるように、学者も業績の他にそれらを身に付けていないと学界では埋もれてしまう。嫌われ者が書いた論文は難癖をつけられて拒否され、つまりはそんな感情によって審査結果を左右させる査読者もいる。権勢を有する教授の論文は欠点があっても受諾され、何も持たない者の論文は些細な欠点でも拒否の理由とされるのである。
 学者としてそれはどうかとは思うが、そう思ってしまうのも、学者を特別視しているからだ。どんな世界であれ、良くも悪くも、微妙な人間関係の中に成立している。

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駄目な生き方 [雑感]

 若い頃は立身出世とか、裕福な暮らしがしたいといった願望があまりなかった。そういったことを望むのは下品で浅ましいことだとする意識を強く持っていたからだ。その感覚が甚だしくなった挙げ句、自分の将来の姿を肯定的にホームレスと見定めていたりした。
 人は物欲なんてものに振り回されず、精神的な何かを追い求めるべきである。そんな人生観を心の内では崇高で格好いいもののように感じていた。
 だが、そんな人生観は間違いだ。
 人生をどのように生きるかについて良し悪しなどない、他人からどう判断されようとも犯罪性や反社会性に傾斜しない限り、どのような生き方でもいいのだと考えるのが基本的なスタンスなのだが、最近は上記のような生き方を間違いだとすべきではないかと思う。
 一生困ることのないほどの財産を引き継いでいるという人なら、それでいいかもしれない。あるいは財産がなくとも、若い頃ならまたそれでいいかもしれない。どんな考えを持っていようと、ある程度は親と社会に庇護されている。揺り籠の中で勝手な妄想に浸ることができる。
 しかし、本当に精神が破綻して、垢と糞尿に塗れた姿で路上に生活することに何の抵抗もなくなってしまえば、もはや問題はないが、そうでなければ、こんな生き方では歳を取るにつれて最低限の生活を維持することすらできなくなってしまう。よほど要領よくやらないと、バイトは体力があって顎で使える若い奴が求められやすいからだ。
 しかも加えて自分の場合、裕福になりたい意識を下品と感じるだけでなく、妙にプライドが高いところもあるため、理不尽な指示でも我慢して仕事にしがみつくということができない。この二つが相まって、人は金のみに生きるにあらず、という態度についついなってしまう。さらにまた、大学院なんてところを出ているため、すでに二十代後半から、院卒の人は使いにくいからという理由でバイトを断られたりしている。
 大学院に行きながら研究者としての仕事を得られなかったのも、業績を積み上げることに必死になったり、有力な教授に媚びへつらったりすることを下品と感じていたのが理由のひとつだ(才能がないだけでなく、別の理由もあるが、人物特定されてしまうからそれは書かない)。
 得体の知れない何か精神的なものを追い求め、経済的な面を蔑ろにして自身と周囲の人たちを不幸にしてしまうよりも、金や地位を獲得する生き方のほうが良いと今では思う。溜め込むことだけに執着してしまっては意味がないが、そこまで病的でなければ、財産を使って解決できることは少なからず周囲にある。知識や技術を身に付ける、病気になったときに治療をする、年老いた親の面倒を見る、などなど、精神的なもののみに関心があった人間には難しいことばかりだ。
 この地上で生きていくための最低限の覚悟と作法を無視した報いといえよう。

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テレビのお約束 [雑感]

 少し前のことだが、ある番組で正しい日本語の表現について取り上げられ、「役不足」とか「確信犯」とかの正しい意味を解説していた。今さらながらだと感じていたのだが、街頭での調査では多くの人が間違えた解答をしていた。もちろん番組作りのために間違えた人の映像を選んで流しているとしても、かつての正しい日本語ブームはいったい何だったのかと呆れた。
 そんな中、「号泣」の意味は「歯を食いしばって泣く」ではなく、「大声を上げて泣く」という意味だといった説明もあった。
 そのコーナーが終わってCMに入った。番宣だったのだが、画面はあるタレントか涙を流し、その涙を手で押さえているというもので、テロップには「○○○○○が大号泣」とある。
 号泣どころか、さらに大がついての大号泣だから、それはもう狂ったように泣き叫んでいる筈なのだが、少なくとも紹介されている画面でのタレントは口は閉じたまま、一筋の涙がすっと流れているだけであった。
 いくら日本語の正しい意味はこうですよと言っても、他の場面で間違った表現を平気で使っていては駄目だろう。こういう批判をすれば、大袈裟にするのがテレビのお約束、などと反論されるかもしれない。しかしそんなお約束など勝手なご都合主義であり、そんなメディアに対しては、もはや信頼性を持つことは到底できないのである。

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名簿業者へ [雑感]

 人の精神状態は常に一定というわけではない。当然のことだ。したがって、いつもは気にしないことであっても、時として不意に衝撃を受けてしまうこともある。

 名簿業者も名簿を購入して商売に用いる会社も、真っ当な業務だとはまったく思わないが、それらの業務の存在を多少は受け入れてもいいから、ひとつだけ配慮して貰いたいことがある。
 名簿には名前と電話番号の他に、独身か既婚かという項目を添えて欲しい。
 至極当然のように、「奥様はご在宅でしょうか?」と問われても、こちらの状況をいちいち説明する義務はないから黙って切るか、乱暴に叩き切るしかない。場合によってはこちらの名と番号をどうやって入手したのかとねちねち聞いた挙げ句にその無礼さを詰ることもあるが、そんな余裕と元気があるときばかりではない。たいていは黙って叩き切る。
 そして、ごく稀に、どうしようもない悲哀に襲われる。これは暴力だ。
 まったく見ず知らずの赤の他人から唐突に差し向けられる暴力である。
 妻はまだ霊安室から戻っていません、とか、昨年実家に帰ったきり戻ってきませんのでそちらの番号をお教えしましょうか、などと言って相手がとう反応するか楽しむ余裕があればいいのだが、もちろんないから腹立たしさと悲哀を抱えるしかない。
 だからせめて、独身用と既婚用の名簿に分けて、それに応じた会社に売るとか、そういった配慮をしてくれることを切に望む。

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知と誤情報 [雑感]

 以前と比べると、様々なメディアにおいて神社や記紀神話について取り上げられる機会が増えた。いわゆるパワースポットなんやらとか日本アゲとかいう流行に乗ってのことだが、それでも相変わらず、政治家が靖國神社に参拝すると、あたかも問題であるかのようにニュースで報じられるという異様なマスコミの姿勢は変わっていない。
 最近はどうだかはわからないが、酷いときには靖國神社に「神道の作法で参拝した」などと殊更に指摘しながらの報道で、そんな当たり前のことすら問題視されていたほどに異様であった。
 それはともかくとして。神社や記紀神話について一般向けの本や雑誌が溢れている現状にもかかわらず、確かな知識はあまり浸透していないように思われる。
 たとえば「ハルチ・ウムチ・ツヅチ」という呪文がある。体操の具志堅選手が自身の力を発揮できる呪文として恩師から教えて貰った言葉で、これを検索すると、記紀神話の海幸彦山幸彦の説話にも登場するなどと説明している記事が多い。しかしこれは正しくない。
 まず『古事記』で山幸彦が授かった呪文は「オボチ・ススチ・マヂチ・ウルチ」で、これは釣り鉤が本来の力を発揮しないように呪う言葉である。そして『日本書紀』では、本文で「マヂチ」、第一の一書で「マヂノモト・ウヱノハジメ・クルシミノモト」、第二の一書で「マヂチ・ホロビチ・オトロヘチ」、第三の一書で「オホヂ・ススノミヂ・マヂチ・ウルケヂ」、第四の一書で「マヂチ・ササマヂチ」とあり、やはりいずれも釣り鉤を駄目にしてしまう呪言だ。言葉が異なるだけでなく、働きそのものがまったく逆なのである。
 具志堅選手が教わったのは、細かな説明は省略するとして、大本教系の呪言らしい。記紀の呪文で多用される「チ」の語は具体的には釣り鉤を意味するが、広い意味では「力」や「霊力」を表し、おそらくは「気」にも通じる語だろう。大本系の呪言ではそのチが満ち溢れるように期待するものとなっているかと思われる。
 一般向けの記紀関連の本はたくさん出ているし、ネットでも確認することは可能なのだから、うろ覚えで説明する前に少し調べてみないとチの持ち腐れである。 

タグ:呪文
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大作家 [雑感]

 ある雑誌をぼんやりと眺めていたら、漢字四文字で二番目が井の字となる人名を見て、ふと某作家のことかと思い、よく見てみた。しかし違った。筒井康隆の名に見えたのだ。ああ、最近どうしているのだろう、もう齢80を越えているはずだ、元気なんだろうか。
 と、久しぶりに老作家へ思いを馳せながらパソコンを立ち上げてネットを見たら、その筒井康隆が炎上しているというニュースを目にした(笑)。
 惚けたゆえの発言ではなく、作家としてのプロ意識からの発言であることを願いつつ、いずれにしてもお元気そうで何よりと妙に安心した。変な輩に狙われたりしないかとの心配もあるが、本人はもう怖いものなしなんだろうな。

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凝った装幀の悲劇 [雑感]

 ここに二冊の漫画本がある。吉田戦車の『若い山賊』、そして以前にも取り上げた、しりあがり寿の『瀕死のエッセイスト』だ。この二冊は本棚に並べず、それぞれビニール袋に入れて保管している。それは何故か。
 はじめは他の本と同じく本棚に並べていた。しかし、それから十数年が経った頃、今から五年かそれ以上前のあるとき、本棚の整理をしようとして気づいた。この二冊が隣り合った本とくっついて離れないのである。つい無理に剥がしてしまったため、隣の本のカバー、そして特に『若い山賊』のカバーは柔らかい紙質のために所々破れてしまった。
 原因は、カバー表面の文字やイラストの一部に特殊なコーティングがされており、それが劣化して溶けたためである。材質はよく知らないけれども、ちょうど木工用ボンドが固まって透明になったような質感のものによるコーティングだ。
 装幀は『若い~』が小松孝代氏、『瀕死の~』がこの業界では奇抜な装幀で評価も高い祖父江慎氏である。経年劣化で仕方ないと自分を慰めつつも、普通の表紙ならこんなことにはならなかったのにと恨めしい。
 本を買うときにはそれが漫画であろうと学術書であろうとカバーの汚れや潰れがないものを丹念に選び、頁を折ったり線を引いたりもせず、どうしても目印を付けたいときは付箋に留めて綺麗なままで保存し、どんなに下らなくても二度と読み返すことがなくとも処分せずに手元に保管していたいフェチ気味で貧乏性の自分は、あれから何年も経っているというのに、この隔離された二冊を見るたびに、小さな溜息をついている。 

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オノマトペを知らない編集者 [雑感]

 もう二十年以上も前のことだから、当時ベテランの域だったと思われるその編集者はもう定年退職していることだろう。某著名出版社の編集者で、知り合いのある先生から口述のテープを起こすことを頼まれ、その際に知り合った。
 起こした原稿を編集者に渡し、やがて三人が顔を合わせて打ち合わせをしたとき、配られた原稿をめくっていて驚いた。その原稿には編集者が疑問点などを書き込んでいるのだが、文中に出てきたオノマトペという語に傍線が引かれ、?マークが付けられていたのである。それは文脈から見て決して間違った用法でも分かりにくい用法でもないから、単に編集者がその言葉を知らないためと思われた。
 原稿を初めて見る先生からすれば、編集者ではなくテープ起こしをした私がオノマトペを知らずに疑問符を付したと思うだろう。まさか編集者が知らないとは考えないだろうからだ。
 まいったなあと思ったが、あからさまに「オノマトペというのはですね」と説明するのも気が引ける。逡巡しているうちに、休憩となって先生が席を外しているとき、どうしてこの言葉に疑問符を付けているのかと編集者に尋ねてみた。するとやはりオノマトペという言葉そのものを知らなかったことが判明し、説明すると、ああなるほど、と納得していた。
 知り合いの某先生に私が無知だと誤解されたのではないかと危惧したこと、そしてオノマトペも知らないベテランの編集者がいることに驚いたことで、記憶に残っている話だ。
 ただ、その道のプロであっても、案外と知らないことはあったりするということは、今となっては理解できる。人は自分の知っていることは知っているが、知らないことは知らないからである。知っていることについて語ることはできるが、知らないことについては語り得ないので、自分が何を知らないのか明確に意識することはできないのだ。
 学生の時分には、大学教授と言えば自身の専門分野については何でも知っているのだろうと思っていたから、まれにこちらが知っていることを教授が知らないという場面に出くわすと、ああこの先生はたいしたことないんだなと思ってしまった。もちろんそんなことはない。知識の量やその使い方からすれば、はるかに教授の方が多く優れているのに、ひとつの欠けている点のみをもって優越感に浸り相手を見下していただけである。
 他者への批判や嘲笑にはこの手のものが多い。正当な批判と言い難いような批判は、このブログではしていないつもりとはいえ、何かを表明したり検討したりする文章を書く上で多少なりとも自身の傲慢を露顕させてしまうことはあるだろう。常に意識すべきことだろうが、これがなかなか難しい。

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不気味な青色灯 [雑感]

 よく通る近所の踏切は、車が同時にすれ違うことができないほどの幅の小さな踏切で、通行人も少ない。先日、日も落ちた時刻にその場所へとさしかかると、いつもと違って青白いライトに照らされていた。青色灯、ブルーライトというやつだ。
 精神を安定させる作用があるということで、自殺防止として駅のホームや踏切に採用されていることは知っている。
 だが、カラフルな光に彩られた繁華街とは違って、畑も各所にあって地味な色と光ばかりの土地の一角が青色に染まるのは、まったく異質で、違和感しか覚えない。
 違和感はすなわち不安感である。苛立った精神は落ちつくのかもしれないが、同時に不気味さに対する不安や意気消沈といったネガティブな感覚も生じてしまう。まさにブルーな気分だ。
 しかもこれまでの白色ライトとの二段構えで位置は異なるから、二種類にややずれた色の異なる影ができて、まるで輪郭のぼやけた3D画面を見ているようで気が滅入る。
 自殺防止という点では効果があるとしても、それ以外では悪影響をもたらすのではなかろうか。

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濡れたマンホールの謎 [雑感]

 本質的な中身については不明なままなのだが、ずいぶんと前から不思議に思っていて、昨年になってついに判明したことがある。
 自宅からスーパーまで向かう裏通りは、裏通りであるだけに車もたまにしか通らず、人もあまり歩いてはいない。そんな道をよく夕方に歩いているのだが、途中の四つ角にあるマンホールのひとつが、なぜかいつも濡れている。
 最初は蓋の下の湿気の問題かと思ったが、季節に関わらず、また天候にも関わらず、水をかけられたようにびしょびしょに濡れているのである。その四つ角には三つのマンホールがあって、うちのひとつだけが必ずといっていいほど水浸しとなっているのだ。
 これはいったいなんだろうと不思議に思いながらも、通り過ぎれば忘れ、わざわざ解明しようとする気も起こらないから、いつまでも謎のままとなっていた。それが昨年のあるとき、件の場所へとさしかかると、自転車に乗ったおばさんがペットボトルの水をばしゃばしゃとマンホールにかけていてるのを見た。いつも濡れているあのマンホールである。おばさんは水をかけたあとすぐに去って行った。その目撃によって、かのマンホールがなぜいつも濡れているのかという謎は判明した。
 だが、おばさんのその行動の意味まではわからない。ペットを連れていたわけではないから排泄物の処理ではないし、かけているのが普通の水なのか、それとも何かの成分が含まれているのかも、もちろん見ただけではわからない。
 一度、近くの野良猫が濡れているマンホールに近づいて鼻を寄せている場面に遭遇したが、舐めるでもなく、嫌がるでもなく、すっと通り過ぎた。
 いろんな妄想が広がる。おばさんには人には見えないものが見えていて、そのマンホールから出てこようとしている何かを浄化するために清めの水をかけて町の平安を守っているのか。何かしらの恨みをマンホールに抱いていて、早く錆びてしまえと水をかけ続けているのか。野良猫を殺すための毒水を、猫には察知されて相手にされていないにも関わらずしつこく撒き続けているのか。
 これからも真相はわからないままだろうし、おそらくわからなくてよいことなのだろう。こんな文章を書き続けていることと同じように、他人には理解できないことであっても、人はあれこれと強迫観念に似た行為を飽きることなく続けるものなのである。

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