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調味料隠蔽事案 [雑感]

 以前にもここに書いたことだが、油断していたら再び見舞われてしまった。
 弁当附属調味料隠蔽事案である。
 かつてよく利用していたスーパーの弁当は、なぜか、惣菜の下に醤油やソースの小袋を隠すように入れていた。食べている途中での小袋の発見は、落胆と苛立ちの混ざった不快な感情を引き起こす。いったん電子レンジで熱々となった醤油はおそらく保存が効かないだろうから、捨てざるを得ず、そのこともまた不快を増長させる。
 たとえ食事前に、または温める前に小袋の存在に気づいて取り出しても、惣菜の汁や油にまみれた袋は洗わないといけない。食事を前にして面倒なことこの上ない。
 現在よく利用しているスーパーの弁当は、調味料が必要ないか、もしくは必要な場合は弁当ケースの外側にテープで留められているため、上記のような手間や不快感とは無縁だった。ところが先日買った弁当には外側に調味料が付いておらず、温めた後、自前の醤油を垂らして大きな春巻きを箸でつまみ上げたところ、まさかの醤油の小袋が下から顔を出した。
 裏切られた気分である。
 もはや気を使うこともなく安心し安定した関係を築いているものと思っていた矢先、唐突に別れ話を切り出されたかのように、甘い錯覚に対する無慈悲な現実が突き付けられた。
 真面目な話、惣菜の下に調味料を隠すことに何らかの合理的な意味があるのなら、教えて貰いたい。ないのなら、単に購入者の利便性を考慮していないということだが、ケースの外側にテープ付けする配慮が見られただけに、配慮が徹底されていないのか、テープ経費削減に因るのか、それとも弁当の種類によって異なる事情が存在するのか、気になって仕方がない。

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フェイクの本道 [雑感]

 もはや驚きはしないが、テレビとは何だろうなと改めて呆れたこと。
 先日、三島由紀夫について取り上げる番組があったので観てみた。バラエティだから期待していなかったが、現実に存在し、かつ現在も存在している人物も取り上げるわけだから、そんなに酷いことはないだろうと思っていたら、やっぱり酷かった。
 視聴者を繋ぎ止めるための、嘘ではないがほとんど嘘と言ってもいい煽り文句の繰り返しだったのである。次にそれらを列挙してみよう。

「瑤子さんの意外な行動を初激白」「傷を負わされた自衛官が語る衝撃の事実」
 三島が立て籠もった際に一人の自衛官を負傷させてしまったのだが、事件後、その自衛官のもとに三島夫人が訪ねてきたときのことである。「意外な」とか「衝撃の」とかいうから、とてつもなく非常識な行動を取ったか、あるいは密かに生前の三島から何かを託されたか、などと想像するも、なんのことはない、主人がご迷惑をおかけしましたと謝罪した、というだけだった。
 謝罪が「意外」で「衝撃」とは、いったいどういう理屈なのか。

「事件直前、妻と交わした驚きの会話!」
 外出していた夫人が自宅に電話して、三島に「今日は遅くなりそう」と伝え、それを聞いた三島は「ああ、そうか」と返事した。
 ただそれだけのことである。こういう状況で急に三島が事件にまつわることを語り出したというのなら多少は驚きだが、そんなこともなく、何が「驚き」なのか、さっぱりわからない。

「三島が語る衝撃の未来とは?」
 今年発見された三島の未公開インタビューの中から、「衝撃の未来」を語っている部分をテレビ初公開するという。三島は生前に、日本は経済的に豊かになるが中身のない空っぽの国になってしまうだろうと語るなど、この国の未来を見据え、それゆえにああいう行動をとったわけで、三島の語る未来と言えば国に関することと思える。しかも上記のテロップを出している間、「人が喜ぶようなこと言いたくない」という三島の言葉をかぶせ、あたかも悲観的な未来を語っているような印象にしている。
 しかし実際に語っていたのは、三島さんが70歳まで生きていたらどんな感じになりますかね、との問いに、「いじわるな嫌なじいさんになる。今でもその兆候は出ている。人が喜ぶようなこと言いたくない。嫌なことを言って暮らしたい」という軽口に過ぎなかった。
 これがテレビ屋(TBS)の言うところの「衝撃の未来」らしい。

 さて、上記のような外側と中身に著しい違いのある映像は、YouTubeにいくらでも見ることができる。衆目を集めるタイトルやサムネイルで視聴回数を稼ぐわけだ。そしてテレビも以前からこのような手法で視聴率を稼いでいる。ネットにはフェイクニュースが溢れている、とテレビや新聞において批判的な指摘がよくなされるが、今さら言うまでもなく、偽物、まやかし、嘘の発信はマスコミが本家本元で、なおかつ是正されることなく現在進行形である。

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残念な役回り [雑感]

 「シン・ゴジラ」を観た。リアルな描写が売りと言うことで、確かにその点は良かったと思うのだが、一方でそれ故にドラマ性の陳腐感が際立ってしまったことを残念に感じた。
 陳腐というのは、石原さとみの演じる人物についてだ。演技が駄目ということではない。むしろ素晴らしかった。問題はああいう役柄の人物が、ドラマ・漫画・アニメ等ではありきたりのキャラで、観ていてこちらが赤面してしまうくらいのステレオタイプのキャラだったことである。
 他にもそういう役柄や台詞はあったが、とりわけ紋切り型のキャラとして突出していたのがあの人物であって、ドラマを展開させるには必要だったとしても、もう少し現実的な人物に描いた方が良かったのではなかろうか。
 石原さとみの映画といえば、もうひとつ残念なものを思い出す。「貞子3D」である。これも演技は素晴らしかったが、ギャグめいた演出がせっかくのホラー感を台無しにしていた。石原さとみの熱演が実にもったいないとがっかりしたものだ。
 ついでにもうひとつ、石原さとみといえば公式な映画デビュー作品も思い出す。筒井康隆の原作だ。某新宗教団体を茶化した小説やエッセイがいくつもあり、その筋の人たちからは嫌われている作家の筈である。新人の頃ならともかく、今なら出ないのだろうな。

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サザエさん批判記事 [雑感]

 アンパンマンに対しての不快感を二ヶ月ほど前に書いたが、先日、サザエさんに対して批判的なブログ記事が話題になっていたので読んでみた。常見陽平氏という労働社会学が専門の評論家による記事で、以下にカギ括弧内の引用は同氏のブログによる。
 アニメへの批判として似たようなものだ、と人の眼には映るのだろうが、自分としてはまったく違うとしか言いようがない。その違いについて、というより、かの記事の異様さについて述べてみる。
 不快感を表明していることそのものは同じである。しかしこちらの不快は、そこはかとなく醸し出される不安定な世界観(子供向けの絵でありながら安心感を得られにくいことなどを含む)の伝播が中心で、それはおそらく大人の目だからであり、子供は背後の不安定さなど気にも留めないことだろう。
 しかし、かの記事の批判はそんなものではない。最初にちょっと筋違いだろうと思える点を挙げておくと、「会社や学校に行きたくなくさせるあの破壊力はいかがなものか」というのは、単に曜日と時間帯の問題に過ぎないもので、「ファッションセンスもいまいち」というのも、あの絵柄へ寄せるべき批判点ではなかろう。では批判の核心は何かというと、「家族の枠組みが変わりつつある中、昭和の憧憬時代劇を流されても困る」というものである。
 ただしこれにしても、一見したところいったい何が困るのかさっぱりわからない。「昭和ノスタルジー時代劇に終止符を!」という表現も使っているのだが、そういったものが嫌いだというのはわかるとしても、そんなアニメが放映されることに何が「困る」のというのか。
 しかも、困るどころではないらしい。「SMAPも解散、安室も引退、平成も終わろうとしているのに、あの番組が続いてしまうことに、常に怒りを感じていた」とまで言っている。サザエさんが存続していることに対して「常に」感じている「怒り」は何かというと、どうやら「自立していない、甘えた人材だらけのアニメのどこが優れているのか、問い糾したい」という怒りらしい。
 サザエさんが主人公であるからには、この人はおそらく、家庭の主婦を「自立していない、甘えた人材」と見なしているのだろう。ノリスケは適当な性格のようだが自立していないわけではなく、他には大人で該当する人物は思いつかない。サザエ、フネ、タイコ、といった主婦の存在が時代遅れであるゆえに、嫌いで、問い糾したく、怒りを感じ、困る、というのである。まさか、カツオやワカメ、タラちゃんや中島君といった子供たちを自立していない甘えた人材と糾弾しているわけではないはずだ。
 まあ、注目を集めようとしてわざと激しい言葉を使っているということではあるのだろう。こちらがアンパンマンについて書いたものも多分にその傾向はある。しかし、社会はこうあるべきという理想を、その中身の是非については今はともかくとして、持っていることはわかるが、極端な表明には多少の異様さすら感じられて何だかなあと苦笑や失笑をせざるを得ないものだ。

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差別という差別 [雑感]

 フジテレビの番組で保毛尾田保毛男というキャラを登場させたことについて、批判的な記事がネットに上がっている。昔ならいざ知らず、今のこの御時世に登場させるとは不見識だ、なぜなら同性愛者を茶化したもので差別にほかならないからだという。
 このテレビ局や番組やタレントを擁護するわけではないが、そのような批判は正しいとは思えない。
 これ見よがしに主張した服装や喋りの実際の同性愛者はテレビによく登場し、たいていの場合、笑いを呼ぼうとして番組に使われている。そして当事者の同性愛者たちも、それに乗っかって笑いを提供しているように見える。そんな同性愛者たちがあのキャラをどう感じているのか、聞き取り調査等をした上での批判なのかどうか。
 ホモという言葉が問題だとしても、それを同性愛者とかニューハーフとかに言い換えればいいということではない。「同性愛者(笑)」とすれば簡単に差別的となる、その程度の問題である。
 多少は不快に感じた者も調べれば見つかるだろう。しかし感性は人それぞれだ。多少はいるという程度なら批判の対象とすることはできない。当事者ではない者たちが勝手に怒りを代弁しているというのが現状で、当事者たちの声が広くあがったときに、ようやく批判として成立するものだ。
 フジの社長は謝罪したそうだが、これまでに謝罪すべき案件は他にあった筈だろうに、それらには無視を決め込んで、こんなどうでもよいことだけ対応する。やはり何かがずれている。

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暗パンマン [雑感]

 アンパンマンのアニメが不快な理由の、残り四点について。
 四つめは、ドキンちゃんである。多くの場合、バイキンマンの悪行を唆すのは彼女であって、同様に満面の笑みで何の罪もない者たちの命を奪いかねない行為に加担する。そしてバイキンマンは結局、ぶちのめされることになるが、だいたいにおいて彼女はそそくさとその場を離れるだけで許されるのである。軽い悪戯程度ならともかく、とてつもない犯罪行為の黒幕でありながら、おそらく女の子という理由によって痛い目にはあわされないという性差別があからさまなのだ。
 五つめ以降はアンパンマンに関することである。まずはよく指摘されることだろうが、自身の顔をちぎって他人に食べさせるという行為の異様さだ。また他のキャラでは、例えばどんぶりまんなどがバイキンマンに襲われて頭の中身を食べられたりするわけだが、とてつもないグロ描写に思えて仕方がない。余談だがどうしてバイキンマンはアンパンマンの頭部を食べようとはしないのだろう。いつも拘束することには成功しているのだから、その際に食べ尽くしてしまえばいいと思えるのだが。
 六つめは、新たな顔に変えられた後の、バイキンマンによって汚されたり潰されたりした顔はどうなったのかという不安感である。カビだらけのくずれたアンパンが転がっている様子が想起されてしまう。
 そして最後の七つめは、バイキンマンを退けた後によく見られる光景である。一件落着してジャムおじさんのパンや、その回の登場キャラが作った食べ物をみんなで食べて平和の回復が表現されるのだが、カレーパンマンなどを含めたキャラたちが楽しく食事をしている中、アンパンマンは卓に着かず、にこやかにその様を眺めているだけだ。
 まるで主人の食卓に同席できない下僕のようで、物悲しい。

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バイ金マン [雑感]

 アンパンマンというアニメがあまり好きになれない。
 子どもの頃から見ていれば大人でも慣れ親しんでいるのだろうが、自分が最初に見たのは成人後で、当初から現在に至るまで見るたびに何とも不安で落ち着かない心地に苛まれる。
 不快の原因をいま数えてみると、片手では足りなかった。長くなりそうなのでここではそのうちの三つの点についてのみ、書いてみる。
 一つはバイキンマンがよく行う悪戯の手口に、すぐに正体をばらすとはいえ、変装して他者になりすまし、悪行の限りを尽くして本人の評判を下げるということだ。
 このアニメだけでなく、他のドラマや映画でも、もちろん作り物だと分かっていてもこういう場面には心が痛む。共感性の心理というやつだ。ただし「地獄少女」のような作品だと、最初から陰鬱な話だと覚悟しているからか、さほど心は痛まない。おそらくアンパンマンの場合は、気楽に見られるはずの絵柄とのギャップによるのだろう。
 二つめは、上に悪戯と書いたが、どう見てもバイキンマンの行為は時として悪戯のレベルではないことだ。本気で殺しにかかっている。それもアンパンマンに対してだけでなく、ジャムおじさんやバタコさんにまで、嬉々として、ニタニタと笑いながら命を奪おうとする。狂気の沙汰である。これに対する不快も「進撃の巨人」のような作品とは違う、気楽に見られるはずの絵柄とのギャップだろう。
 そして三つめは、何度となくバイキンマンに生活の平和を蹂躙されながら、対策をまったく取ろうとしない精神薄弱的な世界であることだ。脅威をいったん遠ざけるだけで、かりそめの平和に満足するという、錯覚の中に成立している不安定な世界が舞台なのである。
 まるで、今の日本の社会で北朝鮮の挑発行為に理解を示す人たちを見るような心地だ。

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狛犬知らず [雑感]

 有名な番組なので見ていた人も多いだろう。神社にやって来た外国人(アメリカ人か)が狛犬を目にし、これは何かと同行している番組ディレクターに聞いた。すると、「えっと、あのー、こまいぬ?いや、ちょっとわからない…」と困惑しながら答えた。
 そして別の神社で稲荷社の前にある狐の像を目にして、さっきと違ってどうしてこれは狐なのかと質問したが、やはり、わからないと返答していた。
 狛犬の歴史とか特殊な知識を問われたというわけではない。たとえこのディレクターが宗教に関心がなかろうと、あるいは別の宗教のみを熱心に信仰していようと、古くからこの日本のいたるところに当たり前のように存在している狛犬を認識していないとは、いったいどういうことだろう。
 いくらバラエティ番組とはいえ、公共の電波に乗る番組の制作現場の責任者がこんなにも無知では、われわれはいったい何を見せられているんだろうと考えてしまう。
 前回、某番組で「準じる」と「殉じる」を間違えていたことを書いたが、その番組は本を紹介する番組だったらしい。それなりに言葉に関わる知識が求められていながら、その程度のレベルであり、バラエティとニュースとドキュメンタリーが融合したような番組ばかりにあっては、問題はテレビ界全体にわたるものといえるのではなかろうか。

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違和感と多様性 [雑感]

 このブログでも何度か用いているが、何事かに対する「違和感」の指摘というものは、記事やエッセイを書くには実に安直な手法だなと思う。
 人の生きてきた環境も嗜好も思想も様々であり、世の中には違和感を覚えるものはいくらでもあるからだ。スポーツに興味がなければそれらに熱狂する者には違和感があり、高校野球を見れば学生としては少数派の坊主頭に違和感を、彼らが厳しい表情でプレーしても笑いながらプレーしても人によっては違和感を覚えるだろうし、応援団にもチアガールにもブラスバンドの演奏にも、負けて砂を集める習慣も変だと思えば変に思えるものである。
 他人が握ったおにぎりを平気で食べる者もいれば苦手に思う者もいるし、店で料理人が作った料理は普通に食べられても、他人の家庭で出された料理は苦手だったりする。
 家庭、地域、世代、文化等といった違いによって、当たり前と思うものもあればそうとは思えないものもあり、その中で自身が感じた違和感に指摘することの意味があることならいいが、それがどうしたとしか思えないものも、とくにネットの記事には多いような気がする。
 一方で、ある種の事柄に関しては、多様性や自由や権利を理由に、違和感の指摘が憚られている場合もある。前者との違いは必ずしも明確ではなく、場合によっては利害が絡む特殊な思想が原因だったりする。その特殊な思想そのものに対する違和感も、公に指摘されることは滅多にない。
 ともあれ、違和感の指摘に対する違和感を指摘してみた次第。

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学者への誤解 [雑感]

 学者という立場の人たちは専門的な知識には豊富だが、それ以外のことに疎く浮き世離れしている、と評されることが多い。しかしこれはまったくの誤解だ。
 学者といえどもほとんど一般の社会人と変わらない。どんな仕事をしていようと、自身が関わっている仕事に関した知識を学んでいる。学者も同じように自身の研究分野に関する知識を学んでいるに過ぎないわけで、その内容が一般の人たちには理解されにくいことから、なにやら自分たちとは違う特殊な人種だと誤解されているだけである。
 学者には奇人や変人が多いとも思われているが、一般の会社員でも同様だ。パワハラやセクハラも、学者の世界であろうとなかろうと見られるものである。
 会社員が才能だけでなく、人心掌握に長けていたり、うまく立ち回ることによっていい地位を得られるように、学者も業績の他にそれらを身に付けていないと学界では埋もれてしまう。嫌われ者が書いた論文は難癖をつけられて拒否され、つまりはそんな感情によって審査結果を左右させる査読者もいる。権勢を有する教授の論文は欠点があっても受諾され、何も持たない者の論文は些細な欠点でも拒否の理由とされるのである。
 学者としてそれはどうかとは思うが、そう思ってしまうのも、学者を特別視しているからだ。どんな世界であれ、良くも悪くも、微妙な人間関係の中に成立している。

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