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差別という差別 [雑感]

 フジテレビの番組で保毛尾田保毛男というキャラを登場させたことについて、批判的な記事がネットに上がっている。昔ならいざ知らず、今のこの御時世に登場させるとは不見識だ、なぜなら同性愛者を茶化したもので差別にほかならないからだという。
 このテレビ局や番組やタレントを擁護するわけではないが、そのような批判は正しいとは思えない。
 これ見よがしに主張した服装や喋りの実際の同性愛者はテレビによく登場し、たいていの場合、笑いを呼ぼうとして番組に使われている。そして当事者の同性愛者たちも、それに乗っかって笑いを提供しているように見える。そんな同性愛者たちがあのキャラをどう感じているのか、聞き取り調査等をした上での批判なのかどうか。
 ホモという言葉が問題だとしても、それを同性愛者とかニューハーフとかに言い換えればいいということではない。「同性愛者(笑)」とすれば簡単に差別的となる、その程度の問題である。
 多少は不快に感じた者も調べれば見つかるだろう。しかし感性は人それぞれだ。多少はいるという程度なら批判の対象とすることはできない。当事者ではない者たちが勝手に怒りを代弁しているというのが現状で、当事者たちの声が広くあがったときに、ようやく批判として成立するものだ。
 フジの社長は謝罪したそうだが、これまでに謝罪すべき案件は他にあった筈だろうに、それらには無視を決め込んで、こんなどうでもよいことだけ対応する。やはり何かがずれている。

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暗パンマン [雑感]

 アンパンマンのアニメが不快な理由の、残り四点について。
 四つめは、ドキンちゃんである。多くの場合、バイキンマンの悪行を唆すのは彼女であって、同様に満面の笑みで何の罪もない者たちの命を奪いかねない行為に加担する。そしてバイキンマンは結局、ぶちのめされることになるが、だいたいにおいて彼女はそそくさとその場を離れるだけで許されるのである。軽い悪戯程度ならともかく、とてつもない犯罪行為の黒幕でありながら、おそらく女の子という理由によって痛い目にはあわされないという性差別があからさまなのだ。
 五つめ以降はアンパンマンに関することである。まずはよく指摘されることだろうが、自身の顔をちぎって他人に食べさせるという行為の異様さだ。また他のキャラでは、例えばどんぶりまんなどがバイキンマンに襲われて頭の中身を食べられたりするわけだが、とてつもないグロ描写に思えて仕方がない。余談だがどうしてバイキンマンはアンパンマンの頭部を食べようとはしないのだろう。いつも拘束することには成功しているのだから、その際に食べ尽くしてしまえばいいと思えるのだが。
 六つめは、新たな顔に変えられた後の、バイキンマンによって汚されたり潰されたりした顔はどうなったのかという不安感である。カビだらけのくずれたアンパンが転がっている様子が想起されてしまう。
 そして最後の七つめは、バイキンマンを退けた後によく見られる光景である。一件落着してジャムおじさんのパンや、その回の登場キャラが作った食べ物をみんなで食べて平和の回復が表現されるのだが、カレーパンマンなどを含めたキャラたちが楽しく食事をしている中、アンパンマンは卓に着かず、にこやかにその様を眺めているだけだ。
 まるで主人の食卓に同席できない下僕のようで、物悲しい。

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バイ金マン [雑感]

 アンパンマンというアニメがあまり好きになれない。
 子どもの頃から見ていれば大人でも慣れ親しんでいるのだろうが、自分が最初に見たのは成人後で、当初から現在に至るまで見るたびに何とも不安で落ち着かない心地に苛まれる。
 不快の原因をいま数えてみると、片手では足りなかった。長くなりそうなのでここではそのうちの三つの点についてのみ、書いてみる。
 一つはバイキンマンがよく行う悪戯の手口に、すぐに正体をばらすとはいえ、変装して他者になりすまし、悪行の限りを尽くして本人の評判を下げるということだ。
 このアニメだけでなく、他のドラマや映画でも、もちろん作り物だと分かっていてもこういう場面には心が痛む。共感性の心理というやつだ。ただし「地獄少女」のような作品だと、最初から陰鬱な話だと覚悟しているからか、さほど心は痛まない。おそらくアンパンマンの場合は、気楽に見られるはずの絵柄とのギャップによるのだろう。
 二つめは、上に悪戯と書いたが、どう見てもバイキンマンの行為は時として悪戯のレベルではないことだ。本気で殺しにかかっている。それもアンパンマンに対してだけでなく、ジャムおじさんやバタコさんにまで、嬉々として、ニタニタと笑いながら命を奪おうとする。狂気の沙汰である。これに対する不快も「進撃の巨人」のような作品とは違う、気楽に見られるはずの絵柄とのギャップだろう。
 そして三つめは、何度となくバイキンマンに生活の平和を蹂躙されながら、対策をまったく取ろうとしない精神薄弱的な世界であることだ。脅威をいったん遠ざけるだけで、かりそめの平和に満足するという、錯覚の中に成立している不安定な世界が舞台なのである。
 まるで、今の日本の社会で北朝鮮の挑発行為に理解を示す人たちを見るような心地だ。

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狛犬知らず [雑感]

 有名な番組なので見ていた人も多いだろう。神社にやって来た外国人(アメリカ人か)が狛犬を目にし、これは何かと同行している番組ディレクターに聞いた。すると、「えっと、あのー、こまいぬ?いや、ちょっとわからない…」と困惑しながら答えた。
 そして別の神社で稲荷社の前にある狐の像を目にして、さっきと違ってどうしてこれは狐なのかと質問したが、やはり、わからないと返答していた。
 狛犬の歴史とか特殊な知識を問われたというわけではない。たとえこのディレクターが宗教に関心がなかろうと、あるいは別の宗教のみを熱心に信仰していようと、古くからこの日本のいたるところに当たり前のように存在している狛犬を認識していないとは、いったいどういうことだろう。
 いくらバラエティ番組とはいえ、公共の電波に乗る番組の制作現場の責任者がこんなにも無知では、われわれはいったい何を見せられているんだろうと考えてしまう。
 前回、某番組で「準じる」と「殉じる」を間違えていたことを書いたが、その番組は本を紹介する番組だったらしい。それなりに言葉に関わる知識が求められていながら、その程度のレベルであり、バラエティとニュースとドキュメンタリーが融合したような番組ばかりにあっては、問題はテレビ界全体にわたるものといえるのではなかろうか。

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違和感と多様性 [雑感]

 このブログでも何度か用いているが、何事かに対する「違和感」の指摘というものは、記事やエッセイを書くには実に安直な手法だなと思う。
 人の生きてきた環境も嗜好も思想も様々であり、世の中には違和感を覚えるものはいくらでもあるからだ。スポーツに興味がなければそれらに熱狂する者には違和感があり、高校野球を見れば学生としては少数派の坊主頭に違和感を、彼らが厳しい表情でプレーしても笑いながらプレーしても人によっては違和感を覚えるだろうし、応援団にもチアガールにもブラスバンドの演奏にも、負けて砂を集める習慣も変だと思えば変に思えるものである。
 他人が握ったおにぎりを平気で食べる者もいれば苦手に思う者もいるし、店で料理人が作った料理は普通に食べられても、他人の家庭で出された料理は苦手だったりする。
 家庭、地域、世代、文化等といった違いによって、当たり前と思うものもあればそうとは思えないものもあり、その中で自身が感じた違和感に指摘することの意味があることならいいが、それがどうしたとしか思えないものも、とくにネットの記事には多いような気がする。
 一方で、ある種の事柄に関しては、多様性や自由や権利を理由に、違和感の指摘が憚られている場合もある。前者との違いは必ずしも明確ではなく、場合によっては利害が絡む特殊な思想が原因だったりする。その特殊な思想そのものに対する違和感も、公に指摘されることは滅多にない。
 ともあれ、違和感の指摘に対する違和感を指摘してみた次第。

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学者への誤解 [雑感]

 学者という立場の人たちは専門的な知識には豊富だが、それ以外のことに疎く浮き世離れしている、と評されることが多い。しかしこれはまったくの誤解だ。
 学者といえどもほとんど一般の社会人と変わらない。どんな仕事をしていようと、自身が関わっている仕事に関した知識を学んでいる。学者も同じように自身の研究分野に関する知識を学んでいるに過ぎないわけで、その内容が一般の人たちには理解されにくいことから、なにやら自分たちとは違う特殊な人種だと誤解されているだけである。
 学者には奇人や変人が多いとも思われているが、一般の会社員でも同様だ。パワハラやセクハラも、学者の世界であろうとなかろうと見られるものである。
 会社員が才能だけでなく、人心掌握に長けていたり、うまく立ち回ることによっていい地位を得られるように、学者も業績の他にそれらを身に付けていないと学界では埋もれてしまう。嫌われ者が書いた論文は難癖をつけられて拒否され、つまりはそんな感情によって審査結果を左右させる査読者もいる。権勢を有する教授の論文は欠点があっても受諾され、何も持たない者の論文は些細な欠点でも拒否の理由とされるのである。
 学者としてそれはどうかとは思うが、そう思ってしまうのも、学者を特別視しているからだ。どんな世界であれ、良くも悪くも、微妙な人間関係の中に成立している。

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駄目な生き方 [雑感]

 若い頃は立身出世とか、裕福な暮らしがしたいといった願望があまりなかった。そういったことを望むのは下品で浅ましいことだとする意識を強く持っていたからだ。その感覚が甚だしくなった挙げ句、自分の将来の姿を肯定的にホームレスと見定めていたりした。
 人は物欲なんてものに振り回されず、精神的な何かを追い求めるべきである。そんな人生観を心の内では崇高で格好いいもののように感じていた。
 だが、そんな人生観は間違いだ。
 人生をどのように生きるかについて良し悪しなどない、他人からどう判断されようとも犯罪性や反社会性に傾斜しない限り、どのような生き方でもいいのだと考えるのが基本的なスタンスなのだが、最近は上記のような生き方を間違いだとすべきではないかと思う。
 一生困ることのないほどの財産を引き継いでいるという人なら、それでいいかもしれない。あるいは財産がなくとも、若い頃ならまたそれでいいかもしれない。どんな考えを持っていようと、ある程度は親と社会に庇護されている。揺り籠の中で勝手な妄想に浸ることができる。
 しかし、本当に精神が破綻して、垢と糞尿に塗れた姿で路上に生活することに何の抵抗もなくなってしまえば、もはや問題はないが、そうでなければ、こんな生き方では歳を取るにつれて最低限の生活を維持することすらできなくなってしまう。よほど要領よくやらないと、バイトは体力があって顎で使える若い奴が求められやすいからだ。
 しかも加えて自分の場合、裕福になりたい意識を下品と感じるだけでなく、妙にプライドが高いところもあるため、理不尽な指示でも我慢して仕事にしがみつくということができない。この二つが相まって、人は金のみに生きるにあらず、という態度についついなってしまう。さらにまた、大学院なんてところを出ているため、すでに二十代後半から、院卒の人は使いにくいからという理由でバイトを断られたりしている。
 大学院に行きながら研究者としての仕事を得られなかったのも、業績を積み上げることに必死になったり、有力な教授に媚びへつらったりすることを下品と感じていたのが理由のひとつだ(才能がないだけでなく、別の理由もあるが、人物特定されてしまうからそれは書かない)。
 得体の知れない何か精神的なものを追い求め、経済的な面を蔑ろにして自身と周囲の人たちを不幸にしてしまうよりも、金や地位を獲得する生き方のほうが良いと今では思う。溜め込むことだけに執着してしまっては意味がないが、そこまで病的でなければ、財産を使って解決できることは少なからず周囲にある。知識や技術を身に付ける、病気になったときに治療をする、年老いた親の面倒を見る、などなど、精神的なもののみに関心があった人間には難しいことばかりだ。
 この地上で生きていくための最低限の覚悟と作法を無視した報いといえよう。

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テレビのお約束 [雑感]

 少し前のことだが、ある番組で正しい日本語の表現について取り上げられ、「役不足」とか「確信犯」とかの正しい意味を解説していた。今さらながらだと感じていたのだが、街頭での調査では多くの人が間違えた解答をしていた。もちろん番組作りのために間違えた人の映像を選んで流しているとしても、かつての正しい日本語ブームはいったい何だったのかと呆れた。
 そんな中、「号泣」の意味は「歯を食いしばって泣く」ではなく、「大声を上げて泣く」という意味だといった説明もあった。
 そのコーナーが終わってCMに入った。番宣だったのだが、画面はあるタレントか涙を流し、その涙を手で押さえているというもので、テロップには「○○○○○が大号泣」とある。
 号泣どころか、さらに大がついての大号泣だから、それはもう狂ったように泣き叫んでいる筈なのだが、少なくとも紹介されている画面でのタレントは口は閉じたまま、一筋の涙がすっと流れているだけであった。
 いくら日本語の正しい意味はこうですよと言っても、他の場面で間違った表現を平気で使っていては駄目だろう。こういう批判をすれば、大袈裟にするのがテレビのお約束、などと反論されるかもしれない。しかしそんなお約束など勝手なご都合主義であり、そんなメディアに対しては、もはや信頼性を持つことは到底できないのである。

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名簿業者へ [雑感]

 人の精神状態は常に一定というわけではない。当然のことだ。したがって、いつもは気にしないことであっても、時として不意に衝撃を受けてしまうこともある。

 名簿業者も名簿を購入して商売に用いる会社も、真っ当な業務だとはまったく思わないが、それらの業務の存在を多少は受け入れてもいいから、ひとつだけ配慮して貰いたいことがある。
 名簿には名前と電話番号の他に、独身か既婚かという項目を添えて欲しい。
 至極当然のように、「奥様はご在宅でしょうか?」と問われても、こちらの状況をいちいち説明する義務はないから黙って切るか、乱暴に叩き切るしかない。場合によってはこちらの名と番号をどうやって入手したのかとねちねち聞いた挙げ句にその無礼さを詰ることもあるが、そんな余裕と元気があるときばかりではない。たいていは黙って叩き切る。
 そして、ごく稀に、どうしようもない悲哀に襲われる。これは暴力だ。
 まったく見ず知らずの赤の他人から唐突に差し向けられる暴力である。
 妻はまだ霊安室から戻っていません、とか、昨年実家に帰ったきり戻ってきませんのでそちらの番号をお教えしましょうか、などと言って相手がとう反応するか楽しむ余裕があればいいのだが、もちろんないから腹立たしさと悲哀を抱えるしかない。
 だからせめて、独身用と既婚用の名簿に分けて、それに応じた会社に売るとか、そういった配慮をしてくれることを切に望む。

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知と誤情報 [雑感]

 以前と比べると、様々なメディアにおいて神社や記紀神話について取り上げられる機会が増えた。いわゆるパワースポットなんやらとか日本アゲとかいう流行に乗ってのことだが、それでも相変わらず、政治家が靖國神社に参拝すると、あたかも問題であるかのようにニュースで報じられるという異様なマスコミの姿勢は変わっていない。
 最近はどうだかはわからないが、酷いときには靖國神社に「神道の作法で参拝した」などと殊更に指摘しながらの報道で、そんな当たり前のことすら問題視されていたほどに異様であった。
 それはともかくとして。神社や記紀神話について一般向けの本や雑誌が溢れている現状にもかかわらず、確かな知識はあまり浸透していないように思われる。
 たとえば「ハルチ・ウムチ・ツヅチ」という呪文がある。体操の具志堅選手が自身の力を発揮できる呪文として恩師から教えて貰った言葉で、これを検索すると、記紀神話の海幸彦山幸彦の説話にも登場するなどと説明している記事が多い。しかしこれは正しくない。
 まず『古事記』で山幸彦が授かった呪文は「オボチ・ススチ・マヂチ・ウルチ」で、これは釣り鉤が本来の力を発揮しないように呪う言葉である。そして『日本書紀』では、本文で「マヂチ」、第一の一書で「マヂノモト・ウヱノハジメ・クルシミノモト」、第二の一書で「マヂチ・ホロビチ・オトロヘチ」、第三の一書で「オホヂ・ススノミヂ・マヂチ・ウルケヂ」、第四の一書で「マヂチ・ササマヂチ」とあり、やはりいずれも釣り鉤を駄目にしてしまう呪言だ。言葉が異なるだけでなく、働きそのものがまったく逆なのである。
 具志堅選手が教わったのは、細かな説明は省略するとして、大本教系の呪言らしい。記紀の呪文で多用される「チ」の語は具体的には釣り鉤を意味するが、広い意味では「力」や「霊力」を表し、おそらくは「気」にも通じる語だろう。大本系の呪言ではそのチが満ち溢れるように期待するものとなっているかと思われる。
 一般向けの記紀関連の本はたくさん出ているし、ネットでも確認することは可能なのだから、うろ覚えで説明する前に少し調べてみないとチの持ち腐れである。 

タグ:呪文
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