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参拝の仕方 [宗教]

 某神社の宮司が、参拝に際しては目を閉じて願い事をするのではなく、目を開けてするのが正しいと某テレビ番組で主張していたらしい。理由は、神職も祈祷において目を閉じることはないし、また相手を見て願い事を伝えるのが礼儀に適っているから、ということだ。
 これが神社本庁で指導されている参拝法かどうかは知らない。しかしそうだとしても、このような作法と根拠に妥当性はない。おそらくはその宮司の個人的な見解だろう。
 まず神職と参拝者を同列に考えるのがおかしい。神職は書かれた祝詞を読み上げ、所定の作法と工程をこなさなければならないから、瞑目していては務まらない。神と参拝者の中継ぎをする役割の神職を、参拝者と同じ位置づけにする必要はない。
 そしてなによりも、相手の目を見て話をするという礼儀は、あくまでも同じ立場において成立するものだ。今の世の中ではたとえ上司や先輩であっても目を見て話をするのが礼儀であろうが、それは同じ人間だからである。しかし参拝において人が対するのは神であって、決して同じ立場ではない。かつては同じ人間でも身分が違えば目どころか顔を見ることすら憚られていたわけで、それは神聖なものを直視してはならないという禁忌と同根だろう。一般に御神体がどのように奉安され、その理由が何なのか、かの宮司はよく考えてみればいい。
 宮司とか住職とかの肩書きを持っていても、たいして専門的な知識見識を有していない者は多い。問題は、そういった人物の意見を碌に調べもせずに安直にたれ流すだけの番組制作側のいい加減な姿勢にもあるわけだが。

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宗教の価値 [宗教]

 世の中には宗教を毛嫌いしている人が多い。掲示板等に書かれているような宗教批判の文言は、ほとんどが単に宗教をよく知らない故の偏見だが、多少はわきまえている人でも、科学的合理的な見地から否定的にならざるを得なかったりする。
 人はよく知らない事柄に対しては、何か印象的な具体例を知ってしまった場合に、それによって全体を認識してしまいがちである。おそらくオウム真理教事件をきっかけに、宗教に対する嫌悪感を持つ人は増えたのだろう。そうでなくとも、ただでさえ宗教はよくわからないものだ。
 ニーチェの超人思想のように、人が新しい神となるべきという思想は、胡散臭い宗教を切り捨てるものとして評価される。自分自身も、そのような思想は価値が高いと思う。
 しかし宗教がこの世からなくなって良いとはまったく思わない。神や教祖を崇め、教えに従い、困ったときにすがるばかりが宗教ではないからだ。
 宗教的行為のひとつに、自分を生かしてくれているものに対する感謝がある。このような感謝の念は宗教の存在理由のひとつだと思われるが、人が仮に新しい神となれたとしても、生命を育む自然や宇宙にはなれない。技術によってそれらの一部を代行することはできても、取って代わることはまずできないだろう。こういう類の感謝の気持ちを人は失っていいものかどうか。
 食事の際に「いただきます」という感謝の念を示すことを、人によってはどうでもいい作法と思うのだろうが、失って良いものだとは思えないのである。

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180万年前の日本 [宗教]

 シュメール王名表なるものに、古代メソポタミアの伝説的な王の名と在位期間が記されている。人類最初の王とされるエリドゥ王アルリムから以下の数代を、ウィキペディアから引いてみると、
 エリドゥ王アルリム、在位28800年間。
 エリドゥ王アラルガル、在位36000年間。
 バド・ティビラ王エンメンルアンナ、在位43200年間。
 バド・ティビラ王エンメンガルアンナ、在位28800年間。
などとあって、一人の王でとてつもない期間を統治していたことになっている。もちろんこれらの年代についてはあくまでも伝説としか捉えようがないものなのだが、似たような記録はこの日本にも残されている。超歴史の文献としてよく引き合いに出される「竹内文書」などという怪しげなものではなく、日本最初の公式な正史、『日本書紀』のことだ。
 神武天皇の即位前紀に、天皇が「天祖の降跡りましてより以逮、今に一百七十九萬二千四百七十餘歳」と語る場面があって、つまり瓊瓊杵尊が地上に降臨したのは今から1792470年ほど前のことだ、というのである。
 この年数が何を意味しているのかはよくわかっていない。本来は『日本書紀』にこのような記述はなかったものを、いつしか誰かの書き込みが反映されて本文のように書き写されてしまったのだともいわれるが、本当のところはわからない。
 そして、この百七十九万年という途轍もない年代は、鎌倉時代に編纂されたと推定される伊勢神宮外宮の文献に、更に具体的に記述されることになる。すなわち『倭姫命世記』によれば、
 瓊瓊杵尊、318543年間。
 火火出見尊、637892年間。
 鵜草葺不合尊、836042年間。
といった治世期間が主張されているのである。
 これは『日本書紀』の百七十九万年余という年数を三代に振り分けたのだと思われるが、それぞれの数字に意味があるのかどうかも、やはり不明である。
 現在に直接つながる古代世界のはじまりを太古の昔に想定するのは、神や英雄の神秘性を深め称える心理として地域に関わらず共通しているのかもしれない。それにしても、アフリカを出て各地に広がっていったホモ・エレクトスという最初の原人の出現が百八十万年ほど前であり、その数字と天孫降臨の時期が一致するのは、面白い偶然といえよう。

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新宗教と信仰 [宗教]

 いつもと同じでまとまった論考ではないことを、あらかじめお断りしておく。
 オウム真理教による犯罪行為が問題となったとき、なぜ宗教学者は教団の危険性を察知できなかったのか、との批判を幾度か目にした。しかしこのような批判は的外れで、それは警察や公安の仕事だ。宗教学者はたとえ教団の教義に危険性や反社会性などを認めたとしても、世間に警鐘を鳴らして公然と批判することはない。
 もちろん明確に犯罪が行われていることを知れば司直の手に委ねる行動は取るだろうが、宗教の教義や修行というものは基本的に世俗の常識から外れているものだから、外れているからといって批判の対象とはならないし、できないのだ。神仏の存在や神仏による救いなど、通常の世俗の感覚から外れているからこそ宗教の価値があるといってもいいくらいだからである。過酷な行として知られる千日回峰行について、他者が寺院や修行者に対して非常識で危険な行為だと非難したり無理に止めようとすることは、宗教学者でなくとも憚れることだろう。まともな研究者ならば、宗教に対して一方的な価値判断を下すようなまねはしないものだ。
 しかも信教の自由という観点から、信者の神経を逆なでにすることもしづらいのである。学者でなくとも公然とは批判しにくいのが宗教の持っているやっかいなところで、思想信条の自由は公然と蔑ろにされることがあることに比べ、信仰の場合はその信者による組織の結束力による違いか、批判に対する反動の大きさゆえか、まさに触らぬ神に祟りなしといった扱いとなっている。思想信条の自由が蔑ろにされるという点については、たとえば特定の政治家や政治思想の支持者に対する犯罪めいた誹謗中傷や罵詈雑言が横行していることからも明らかだろう。
 信者の神経を逆なでにすることがとくに問題となるのは、新宗教である。伝統的な宗教がいくつも存在している社会で新宗教を信仰するには、強い信仰心が必要で、ゆえに信者の結束力も強い。伝統的な宗教組織を相手に除夜の鐘がうるさいと理不尽な文句をつけても寺側が引き下がったりするが、新宗教ならそう簡単にはいかない。へたをすればオウム真理教が起こしたような事件に巻き込まれかねないのである。
 さて、今回のこの文章において何を書きたかったのかというと、ひとつには教団というものはとにかくやっかいなものということだ。かといって自分は宗教が嫌いではなく、むしろこれほど興味深いものは他にはないと思っている。イスラム過激派のようにまかり間違えば世界を大混乱に陥らせるが、つまりはそれほどの力があるものであって、人の思想と行動、さらに自他の命にまで影響を与える。ゆえに宗教を毛嫌いする人も多いけれども、たとえ宗教がなくなったとしても別の価値観が取って代わるだけであろう。そもそも何かに祈ることをまったくしないでいられるほど人生は平穏ではなく、ニーチェの予言のように人が新しい神になるほどには、いまだ人は強くもない。
 某タレントが某新宗教教団の信者であることを公表し、それに伴って事務所と一悶着を起こしていることについて、あれこれと思うことはあるが、とかく宗教団体の関わる問題については明確な犯罪でない限り表明することは難しい。あの教団における出家の概念は通常の仏教におけるそれとは異なっている、といった客観的な論評ならばもちろん可能だけれども。そしてもうひとつ個人的な感想として強く抱いたのは、親がその信者で自身も生まれたときから当たり前に接してきた宗教とする世代が生まれているという、そんな時間の推移を目の当たりにして驚いたということだ。自分の世代にとってあの教団はまさにぽっと出の新宗教だが、そうではない大人、つまりたとえ親が信者であろうとなかろうと教団に対する認識も大きく違っているであろう世代が存在しているのである。
 批判や分析ではなく個人的な歴史を最後に書いておくと、自分は宗教もオカルトも関心の分野で、あの教祖の父親が最初に出した霊言集からしばらくは興味深く目を通し、数冊は手元にもある。まだ教団となる以前、組織化を図ってやがて教団となっていく兆しが現れた辺りで読むのを止めた。社会学的な関心事としては注目すべき状況だったのだろうが、個人的には内容の上からもこれ以上は追う意味も価値もないと判断したからである。

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お炊き上げ [宗教]

 年が明けて間もない一月一日の0時30分頃、毎年、近所の神社に参拝することにしている。
 昨年の正月にここに書いたことだが、なぜか昨年はいつもより参道に並ぶ人の数が極端に少なかった。で、今年はと言えば、従来より少ないとはいえ、やや持ち直したようだ。若い女性の姿が多く思えたのは、昨今のパワースポットブームの影響が少しはあるのかもしれない。
 にしても相変わらず、境内で古い御札等を炊き上げている火中に、無料で配られる甘酒の紙コップやゴミも投げ込まれている。
 御札を祀ることをしない多くの連中にとっては、単に暖を取るための焚き火に過ぎないのである。神職の常駐していない神社ということもあって、取り仕切っている氏子の役員たちも注意をしないどころか、同様にゴミを投げ込んでいたりする。
 いつものようにどうしようかなあと古い御札をコートのポケットに入れたまま、しばらく火に当たって佇んでいた。そして、気にすることなく御札や破魔矢を火中に投じる人たちを何人か眺めた後、諦めて御札を火にくべた。
 何だか罰当たりな、嫌な気持ちをいだいて帰宅した。
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初詣の悩み [宗教]

 年が明けて一時間後くらいに、近所の神社に参拝することをここ数年来の慣わしにしている。いつもその時間には正面の鳥居から道を挟んで数十メートルの列ができ、参拝するにはかなり待たなければならなかった。
 ところが今年は、鳥居前の道路を越えての列を成しては居なかった。雨も雪も降っていない、心地よく冷たい冬の夜なのに、鳥居のすぐ前までにしか人はいなかった。全体の列の長さとしては、従来の半分弱といった参拝者の数だったのである。こんなのは初めてだ。
 不況のせいだろうか。しかし、それだからこそ僅かな額のお賽銭での神頼みが増えるとも思われるが、あるいはそんなことすらしないほどの無神論や厭世観が蔓延ってしまったのか、などと考えつつ、こちらはいつものように周りの人たちが滅多にしない型どおりの二礼二拍手一礼で参拝し、神宮大麻と神社の御札を頂いた。
 境内では古い御札や破魔矢などがお焚き上げされている。しかしそれはただの焚き火に御札等が投げ込まれているだけで、無料で配られている甘酒を飲んだ後の紙コップやその他のゴミなども、人々は勝手に火中に投げ込んでいる。これはいつもの光景だ。
 毎年、古い御札をこのときは持参しているのだが、やはりいつものように、ゴミと一緒に御札を焚き上げるのが躊躇われ、翌日に再び神社を訪れて、人の少なくなった状態の時に火中へと投じた。
 毎年、なんとか改善されないものかと頭を悩ませている。
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元A級戦犯と戦争賛美 [宗教]

 靖国神社に十数人のいわゆるA級戦犯が祀られていることを問題視し、公人が参拝することするを批判する人は、その他の246万人の祭神のことをどうして無視するのだろう。この点だけでも批判者たちの観点がいびつに偏っていることがわかるというものだ。
 総理大臣による参拝が、246万柱のうちの14柱の生前の行為を賛美しているのだと見なして批判するというのは、いくらなんでも強引ないちゃもんと言わざるを得ない。ヤクザに理不尽に因縁をつけられることと何ら変わりない。
 靖国神社に元戦犯が祀られているということ自体についても、その元戦犯たちは昭和28年に国会において全会一致で事実上の名誉回復がなされているゆえに、少なくとも国内的には問題はない筈なのである。
 元国立大学の心理学の教授で、現在は拝み屋宮司をしている人のブログに次のような文章があった。すなわち、昭和天皇でさえA級戦犯とされた人々が靖国神社に合祀されたことに不快感を覚え、1975年以降は親拝が取りやめられている、そして今上天皇も即位してから一度も親拝を行っていない、云々。
 昭和天皇の不快感云々というのは、富田メモによるものだろう。しかしあのメモの信憑性については疑問が多いことが指摘されている。また昭和50年(1975)には三木総理による参拝をきっかけに天皇陛下の御参拝を社会党が問題視しており、それ以降に御参拝がなかったことは必ずしも元A級戦犯合祀と関係があるとはいえない。
 また今上天皇が参拝されていないのも、中韓による一方的な問題視からすれば当然で、あえて御参拝に踏み切る筈もない。上記のA級戦犯との関連を思わせるような記述は独断としか言いようがない。
 拝み屋とはいえ宮司を称するのなら、こういう問題についてももう少し勉強し考えて書いて貰いたいものだ。
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ネットカルト3 [宗教]

 このブログで何度かカルトという言葉を使っているが、本来この言葉はあまり使わない方がいい。少なくとも日本の教団に対しては注意を要する。
 オウム事件以降、まっとうでない宗教団体に批判的な意味を込めてカルトと評することが多くなったけれども、某著名な故宗教学者は、日本の教団にはこの言葉を用いることを避けていた。なぜならこれは学術用語として固まっておらず、もともと欧米では保守的なキリスト教徒が他の宗教を侮蔑してこう呼んでいたという、手垢のついた言葉だからである。
 ともあれ、そのことを踏まえた上で、便宜上カルトという言葉を使っていることはとりあえず明記しておく。

 下に書いた、ネット上で祝詞を呪文と表現しているある人物が、饒速日命は神ではなく朝鮮半島からやってきた武人だから神界にはいない、という。こちらはそんなことを知り得る能力を有していないので、まあ肯定も否定もしない。
 だが、その半島に由来する武器を継承した物部氏が神事を独占したとき、「捏造された祝詞も多い」のだと書かれては、ああやっぱり変だなと思う。祝詞は神への感謝とか報告とか祈願を寄せるものだから、もともと、人が作るものなのだ。
 神から授けられた意味不明の「呪文」の類を問題としているのなら、実は神由来ではなく人が捏造したのだとかいった言い回しにはなるだろう。しかし人が作るべき祝詞を呪文と呼び捏造云々と表現しては、やっぱりこの人はよくわかっていないのだなと判断せざるを得ない。
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ネットカルト2 [宗教]

 神社で神職が唱える祝詞を「呪文」だと表現する人は、神道のことをよく知らないか、国語表現能力に少し問題がある人だと見なしていい。不得手な人にとって古文が意味不明の呪文に見えるように、祝詞の古めかしい表現も呪文のように聞こえるかもしれないが、神道の世界をある程度知っていればこんな表現は用いないだろう。
 祝詞を呪文と表現するある人物が、呪文にはそれを使用し続けている家系の霊的な垢がこびりついているから、唱えることは霊的に良くないのだと主張する。ただし、大祓詞は倭姫命が天照大神から授かった特別な祝詞なので、大丈夫だという。
 神道のことをある程度知っている人間ならば、大祓詞は別名を中臣祓詞ともいい、中臣氏が唱えるものだったことを知っている。御祈祷において神職は、大まかな型は維持しつつも、依頼者の事情に合わせて自由に祝詞を作文する。これと違って大祓詞は、奏上体と宣下体の違いや表現の改変はあるにせよ、神職が作文することはできない決まった形のものである。「霊的な垢」がこびりつくという主張ならむしろ大祓詞にこそふさわしいだろう。
 倭姫命と大祓詞の関係については、これはもうその人が霊的にそのように感得したと主張するのなら、同じ土場に立てない以上、否定も肯定もしない。が、あまり手を広げすぎて、後から矛盾を繕う説明を加えないと疑問点だらけというのでは、ついていくのはよほどの盲信の者だけだ。
 念波観音力という言葉を某掲示板に書き込み、念「彼」観音力の間違いではないかと指摘された後、実は「念波」とするのが正しいと主張した時点で、それを見ていた多くの者は苦笑していたと思うけれど。
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平と平吉 [宗教]

 運気というのは面白いもので、駄目なときには本当にいろんなものが次々と駄目になる。自分の努力だけでは覆すことができないようなことが信じられないくらいに続けざまに起こったりするから、経験的に、占いの類を頭から馬鹿にすることはできなくなってしまう。
 人間関係が次から次へと破綻し、仕事もぷっつりと途切れ、何だこれはと一人呆然としているとき戯れに占ってみたら、いわゆる大殺界、天中殺といった時期に入っていた。
 この天中殺を中心とした数年間、神社のお神籤で良いものはまったく引かなくなった。正月と夏越大祓、および旅行等でとくに参拝した場合に神社でお神籤を引いてみるのだが、現在の閉塞状況になる以前は珍しくもなく大吉を引いていた。それがまったくなくなってしまったのだ。
 先日、六月の末に埼玉大宮の氷川神社に詣でた。お神籤の結果は「平吉」。ここのお神籤には平というものが出る。去年か一昨年には平が出た。平と平吉とでは平吉の方がましだろうと思えるが、それはよくわからない。いずれにしてもあまり良い結果ではない。
 そんなお神籤を引いた後、神職たちが境内で大祓の祭儀を行っているのを眺め、諸々の禍事罪穢およびこれからやって来るかもしれぬ不運不幸や災いを退けることができますようにと、やや諦め気味でぼんやりと祈った。
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