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違和感と多様性 [雑感]

 このブログでも何度か用いているが、何事かに対する「違和感」の指摘というものは、記事やエッセイを書くには実に安直な手法だなと思う。
 人の生きてきた環境も嗜好も思想も様々であり、世の中には違和感を覚えるものはいくらでもあるからだ。スポーツに興味がなければそれらに熱狂する者には違和感があり、高校野球を見れば学生としては少数派の坊主頭に違和感を、彼らが厳しい表情でプレーしても笑いながらプレーしても人によっては違和感を覚えるだろうし、応援団にもチアガールにもブラスバンドの演奏にも、負けて砂を集める習慣も変だと思えば変に思えるものである。
 他人が握ったおにぎりを平気で食べる者もいれば苦手に思う者もいるし、店で料理人が作った料理は普通に食べられても、他人の家庭で出された料理は苦手だったりする。
 家庭、地域、世代、文化等といった違いによって、当たり前と思うものもあればそうとは思えないものもあり、その中で自身が感じた違和感に指摘することの意味があることならいいが、それがどうしたとしか思えないものも、とくにネットの記事には多いような気がする。
 一方で、ある種の事柄に関しては、多様性や自由や権利を理由に、違和感の指摘が憚られている場合もある。前者との違いは必ずしも明確ではなく、場合によっては利害が絡む特殊な思想が原因だったりする。その特殊な思想そのものに対する違和感も、公に指摘されることは滅多にない。
 ともあれ、違和感の指摘に対する違和感を指摘してみた次第。

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被害者面 [報道]

 ネット上に、テレビはなぜネットのデマに躍らされるのか、というタイトルのニュース記事があった。
 しかし、もはや捏造の元凶をネットに押しつける構図そのものには説得力がない。騙されるテレビ側の無能さについての指摘は正しいが、ネットの悪とテレビの正義という前提が垣間見えるのは、やはり未だにテレビに対する信頼を疑っていないからで、悪意や無能の存在はネットでもテレビでも同じである。テレビのデマに躍らされているネット記事はいくらでもある。
 テレビ側の無能については実体験として承知している。詳しくは書けないが、一昔前の渋谷のチーマー然とした風体のディレクターに、いい加減なネット情報をあたかも自分の専門的な知識のようにカメラ前で話すよう要請されたことがあった。その際に知った制作者側のどうしようもない知性や品性に、ほとほと呆れかえってしまい、それ以来、かの番組を観ることはなくなった。
 先日、某番組のテロップで、「殉じる」とすべきところを「準じる」と出しているのを見た。それは出演者が語っている言葉だったが、本人に確認することもしていないわけだ。ADが打ち出したであろう文字をDが確認しなかったか、しても間違いと理解できなかったらしい。
 雑誌書籍などで誤植が出るのは編集者にとって恥ずべき事だが、テレビ屋にとってはそれほどでもないから、文字の確認作業は定着していないのだろう。映像と音にこだわっても、文字には無頓着では、いくらテレビとはいえ伝えることの基本がなっていない。所詮、その程度のメディアに過ぎないことは、最近はよく知られるようになったと思われるが、周知されるという程になるのはいつのことだろうか。

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肯定するものではありません [報道]

 心霊ものやUFO関連の動画を扱ったテレビ番組では、「心霊現象を肯定するものではありません」といったテロップが最近はつけられるようになっている。
 CMでも、トリックや非現実的なシーンの場合、「CM上の演出です」という説明文がわざわざ表示される。わかりきったことだがなあと白けてしまうが、そうしないと文句が寄せられたりするのだろう。
 しかし心霊系の番組の場合、世の中には霊能者や祈祷師として生計を立てている者もいるわけで、番組は彼らの立場を、はっきりと否定はしていないとしても、肯定はしていないわけだ。まあ、公共の機関としてはいたしかたないことかもしれない。
 が、「肯定するわけではない」ことを主張するのは、彼らの思想信条の自由を侵害するとまでは言わないとしても、なにやら胡散臭いものですよと決めつけていることになるのではないか。世の中には霊能者の類の者を詐欺師としか見ていない人も多く、確かに胡散臭い自称霊能者もいるとはいえ犯罪者でない限り、肯定はしませんよといちいち公共機関から評価される筋合いもないような気がする。
 パワースポットブームとやらであちこちの神社のご利益が紹介されても、別に「神霊の存在を肯定するものではありません」とか「ご利益を肯定するものではありません」などとは出ないのは、相手が宗教法人だからで、歴史や組織の有無が問題なのだろう。
 一方で、より公正でなければならない報道において、根拠のない野党側の言い分による疑惑ばかりたれ流すことは大いに批判されるべき事で、もちろん「疑惑を肯定するものではありません」と表示したとしても許されることではないわけだが。

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偏向批判 [報道]

 改造内閣について「お友達内閣という批判をかわす目的か」などという論評が、いくつかの局で同じようになされているのを見た。
 これが野党側による論評なら、理解できなくもない。とかく野党は与党の為すことについては批判的な言辞しか吐かないからだ。しかしこれが野党でもなく、また自民党に批判的な評論家でもなく、普通のニュースにおいて局のアナウンサーがこのようなことの書かれた原稿を読み上げるとなっては、いたく違和感を覚えざるを得ない。
 なぜなら、これまでの内閣がお友達内閣と批判されるべきものであることを正当とした前提となっているからで、こういう点においても、ニュース報道が公正性を離れ、野党側に偏した姿勢であることを示しているものといえよう。
 そもそも内閣のトップが、自身の理想とする組閣を検討する際に、気心の知れた人物を集めるのは当たり前ではないか。お友達云々という批判は実質的には批判たり得ていなくとも、なにやら批判的に発言されると、あたかも的を射た批判であるかのように一定の評価を持ち始めるのは、一連の森友とか加計とかの疑惑と称されるものにおける安倍批判と同類であろう。
 ところで、森友学園側が寄付でないものを寄付と偽造していたことが明確となったことに対し、総理側からの寄付があったとする疑惑(犯罪でもないのに疑惑と呼ぶのは野党マスコミ連合側の嘘だが、便宜上使っておく)を連呼していた連中は、何か言うことはないのか。

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