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捧持と棒持 [国語]

 捧持という言葉の意味は、両手で恭しくささげ持つこと。ささげを漢字で書けば「捧げ」。パソコン環境によっては見にくいこともあるだろうが、手偏に奉であり、木偏に奉の「棒」ではない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、ネット検索してみたら、「捧げ持つ」捧持と書くべきところを、「棒を持つ」棒持と間違えている文章が多いことに気づいたからだ。用語解説の類のページで、棒の字を用いて「ほうじ」と読ませ「ささげ持つこと」と説明していたりする。または由緒ある著名な神社のサイトでも間違えているところがあり、捧げ持つことが大切な作法でありながらしっかりとは身についていないのだなと苦笑させられた。
 ちなみに抱腹絶倒という言葉も、本来は捧腹絶倒と書く。残念ながら私の使っている日本語入力システムに正しい方の言葉は入っていない。

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狂気か戦略か [政治]

 ここ数年のマスコミや野党政治家や左派評論家が、民主的に選ばれたはずの政権を批判するために民主主義を否定するような狂った言説を吐くようになったと思ったら、今度は政権批判のために、政治家ではない首相夫人がどんなネット記事に「いいね」を押したかを問題視するという人権無視を始めたようだ。
 表現や思想の自由、また特に女性や妻という立場の人権の尊重を声高に主張する、いわゆる人権派の人たちは、こんな暴挙に対して何も言わないのだろうか。
 確実な証拠なしでも罪を認めるまで罵倒し責め続けて止まない魔女裁判がこの二十一世紀の日本に現出している事態を、自分たちの気にくわない人間が悪魔の証明を強いられることは別に構わないと思っているのなら、何も言わないのだろう。
 こんな短期間で、元学園理事長や元事務次官を敵と見なして批判したり、味方と見なして擁護したりと、もはや理屈の整合性などお構いなしで政権批判に利用するマスコミや野党政治家たちは、自分たちがどのように見られているのかについては無頓着なのか、それともわかっていて無視を決め込んでいるのか、はたまた文字通り狂っているのか。
 そこにあるのが恥知らずな策略であれ狂気であれ、不幸な状況であることには違いない。

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の(方)が [国語]

 乃木坂と欅坂のどっちが好きかとの問いに、「乃木坂のほうがいい」と答えるなら、好みの良し悪しはともかく、日本語としての問題はない。
 乃木坂と欅坂のセンターのどっちが好きかとの問いに、「欅坂のがいい」と答えるなら、少しぎこちないとはいえ、それでも日本語として間違ってはいない。このような比較の場合、共通する「センター」という言葉もしくはセンターを指す「ほう」を略して「~の(センター/ほう)が~」とできる。つまり正確に答えるなら「欅坂のセンターがいい」または「欅坂のほうがいい」となるが、この場合は「欅坂のがいい」でもひとまず問題ない。
 しかし、最初に挙げたような、略せる共通の項目がないような問いにも、ほう(方)を略した「~のが~」という表現が最近は目立つような気がする。
 共通項が明示されなくても「ほう」を略すことはある。たとえば、どんなカレーが好みですか、という問いなら、甘口のカレーとか中辛のカレーといった選択肢が存在しているのは確かだから、共通する「カレー/ほう」は省略し、「とびきり辛いのがいい」と答えることができる。だが、カレーとラーメンのどちらが、の問いに「カレーのがいい」と答えることはできない筈である。
 このことを最初に強く意識したのは、『よつばと』七巻を読んでいたときだ。共通項もなく単純に羊とヤギを比較した場面で、「俺は羊よりヤギのがいいな」という台詞が出てくる。ヤギが、またはヤギの方が、の誤植かとも思ったが、意識し出すと掲示板のような短い言葉の遣り取りではたまに使われている表現だとわかった。
 上記の漫画の台詞を喋っているのは軽薄なキャラの人物だから、わざとそうしているのかもしれない。にしても、若い世代ではこのような言葉の変化が進みつつあるのか、それとも以前からあったのか、または地域性があるのか、国語を専門としていないからあまり詳しく調べようとは思っていないけれども、なんとなく気になっている。
 
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もし~だとしたら [報道]

「もし~だとしたら、ひどい話だ」「もし~だとしたら、絶対に許さない」という、仮定の話から断定的に非難へと結びつける表現は、ずいぶん以前から掲示板やブログなどでよく見かけられる。だいたいにおいてほんの数行の書き込みだから、仮定にどれだけの説得力があるのか提示されることはなく、結果として仮定に誤りがあっても後に訂正されることも滅多にない。煽りや釣りの類としての面白半分か、もしくは本気の書き込みなら単に知性の足りない子供じみた感情的な物言いだなと気になっていた。
 それがここ数年、大手の新聞テレビ等でも、「もし~だとしたら大問題だ」というフレーズが氾濫しているように思える。政治家が政敵に対してこのような表現によって批判することはよくある。それはそれでまた批判の正当性が証明されない限りは、印象操作を狙っただけの幼稚な悪口に過ぎないもので閉口させられるが、同類の感情的な語り口が大手マスメディアからもなされるというのは、呆れかえるという表現だけでは済まされない状況といえるだろう。
 強いて言えば、呆れるというより恐怖に近い。

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原武史の言説 [皇室]

 神の実在を信じるとか、その神に願いを訴えかけたり感謝を捧げるといったことはもちろん、あくまでも信仰の問題で、極端に反社会的な思想や行為でない限りはたとえ科学的合理的な精神に反していようと、他人から批判される筋合いはない。
 にもかかわらず、出血は神の嫌がることだとする考え方に対しては、なぜか性差別の問題や科学的合理的な見地から「そんな迷信に従うべきではない」といった論調が起こったりする。
 信仰の異なる者の間で見解がぶつかることはある。一方が自分たちの理屈に基づいてもう一方の見解を否定するような独善的な態度は、原理主義的傾向の強い集団に限らず今でもよく見られることのようだ。例えば清めの塩について、ある神道研究者がカトリックの指導的立場の人物に理由を説明したところ、「それはいけませんね」と否定的反応が返ってきたという。また浄土真宗で清めの塩を迷信だと否定することはよく知られているが、それを「迷信」と説明すること自体が他の世界観や信仰への断罪を意味している。
 イエスは神の一人子で救世主であるとか、念仏を唱えれば救われるといったことは、それを信じている者にとっては迷信ではないことと同じように、清めの塩も赤不浄も、そういった世界観の中に生きている人間にとっては迷信ではない筈である。
 ただ、より問題なのは最初に提示したように、信仰上の見解の相違ではなく、科学的合理的な見解もしくは何かしらの思惑から特定の考えを迷信として葬ろうとする論調であろう。
 最近では日本政治思想史の原武史氏が、「『血の穢れ』の問題」が皇室にあり、「そこにメスを入れようとしない限り、女性天皇や女系天皇に関する議論は足元がおぼつかないままだ」(NEWSポストセブン)と言っている。メスを入れるという表現から、赤不浄の考えを撤廃すべきと考えているのは明らかだが、この禁忌の存在によって「絶対的な『男女の差異』を認めてしまっている」と説明していることからも、信仰や伝統の問題には目もくれず、ただ男女平等という近代的価値観によって皇室祭祀や皇位継承の問題を考えようとしていることがわかる。
 性差別はよくない、といえば今や誰でも賛成することだろう。しかし根底にあるのはそのような差別なのではない。そもそも出血を穢れとするのは、それが死への過程であり、死を連想させるからである。血そのものが穢らわしいわけでもなければ、月経のある女性が穢らわしいわけでもない。また神社を参拝する際には手水舎で手と口を浄めるのが慣わしだが、「祓い浄めを求めるのは参拝者を穢れた存在とする差別だ。手水舎を撤廃せよ」と主張する者がいるなら、神社側としては、どうぞお引き取り下さいと言うしかないだろう。
 この原という研究者は、明治時代末の宮中に仕えた山川三千子の『女官』(講談社学術文庫、2016年)に、「宮中の『闇』をあぶり出す」という題目の解説を載せている。これは本書を読んでみればわかることだが、こんな強烈な表現が用いられるような陰鬱な話の本ではない。今から百年ほど昔の明治大正期の特殊な世界ゆえに、多少は窮屈に縛り付けられている物悲しさはあるが、現代の民間でも、学校や会社など人が集まるところではどこにでも見られるような人間関係の問題が浮かび上がるだけで、むしろ明治天皇の人間らしい言動が知られる、そういう意味で興味深い本である。
 闇をあぶり出すという表現ひとつを取っても、この研究者が皇室に対していかにバイアスのかかった見方をしているのかがよくわかる。

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マナーの根拠 [雑感]

 少し前に、緑茶をお祝いの返しにしてはいけないとマナー講師が説明したことに対し、反撥の声が挙がって小さな話題となった。マナー講師と呼ばれる人たちによる適当で一方的な解説については、以前にもここに書いたことがある。
 それは神社で手水を使うとき、最初に左手に水をそそぐという行為について、その理由を「神道では左手は穢れているという考えがあるから」とする解説についてだった。
 神道、と一口に言っても、何を指しているのかは人それぞれである。これは神道を語るときのやっかいな点のひとつなのだが、紀紀などの古典に則した考えか、吉田神道や度会神道などの流派で主張される思想か、宣長や篤胤などの国学者の見解か、それとも民俗神道かなど、依拠するものによって見解は変わったりする。場合によっては大本教など近代の教団や宗教家たちの思想が「神道」の考え方だと説明されたりすることもある。
 左手が穢れているという考えは、少なくとも神道の古典に則した考えではない。どんな個人か組織が主張していたのかは詳らかにできないが、もっともオーソドックスな神道思想に左手を穢れとする思想はないと言っていい。合理的あるいは常識的に見れば、世の中には右利きの人が多いから、右手に持った柄杓でまずは左手を洗う、というだけのことだろう。
 あるいは古典に則するなら、むしろ左手は尊い側と言える。『日本書紀』の一書によれば、伊奘諾尊が左手に白銅鏡を持ったときに大日靈(正しくは下の巫が女となる字)尊が生まれ、右手に持ったときに月弓尊が生まれたという。大日靈尊は天照大神のことだから、どちらかと言えば右手より左手が尊いことになるわけだ。また別の一書でも伊奘諾尊が左眼を洗ったときに天照大神が、そして右眼を洗ったときに月読尊が生まれたともあって、左右のうちの左側が上位と知られる。もし手水の順序に理屈を付けるとするなら、左手が尊いゆえに左手を先に清める、となるだろう。
 マナーというものは一種の型であり、決まった型で一貫させるところに生まれる美ゆえにマナーは重要だと考える。しかし型としてのマナーの背景は一様ではないことが多く、何を根拠にしているのかという説明がいい加減では、せっかくの美が台無しとなる。確実でないことには口を慎むのが良きマナーといえるのではなかろうか。

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画一的な応援 [社会]

 今回の冬季オリンピックに関してはどうだったか知らないが、国際的なスポーツ競技が開催されるときに選手に対してよくなされる不愉快な言葉がある。「自分が楽しむことを第一にして欲しい」というアドバイスである。なぜ不愉快かと言えば、この言葉には、「日本のためとか日の丸のため、ということではなく」といった前提が置かれているからだ。
 重圧を和らげようとする意図があるとしても、まったく大きなお世話である。選手がどういうモチベーションで競技をしているのか個別的な違いを無視し、国という概念を消し去ることが絶対の真理であるかのように決めつけるのはいかがなものだろう。国のために頑張ろうと意気込んでいる選手なら、逆に気分を削がれるのではなかろうか。
 何のために戦うか、動機や目的は人それぞれにある。他人に指図される筋合いではないし、画一的に決めつけられる筋合いもない。

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記事の訂正と追記 [皇室]

 前回の記事に誤りがあったので訂正し、若干の追記をする。なお、その誤りの箇所はすでに書き替えたので、訂正前の箇所をまずは復元して示しておくと、剣璽等承継の儀について「まさに先帝崩御の直後、前回の場合は崩御の二時間後に行われている」という指摘についてである。
 正しくは、崩御の二時間後に今上天皇は承継の儀式のために東宮御所を出発されている、ということになる。細かく書くなら、昭和六十四年一月七日の早朝六時三十三分に昭和天皇が崩御し、七時四十二分に今上天皇は東宮御所に戻られ、八時四十四分に同御所を出発、そして宮中正殿で剣璽等承継の儀が行われたのは十時一分である。
 つまりこの儀式が行われたのは先帝の崩御から三時間半後というのが正しいわけだが、それでもやはり「崩御の直後」と言って間違いはなく、そんな慌ただしい中での儀式における女性皇族の不参列を「排除」と表現する朝日新聞の社説は不適切であろう。もとより現皇室典範では皇位を継承できるのは男子皇族のみとされ、すなわち女性皇族に神器を承継する可能性はない。
 大正天皇が崩御したのは葉山御用邸の附属邸にて静養されていたときだった。お見舞いのため滞在されていた昭和天皇に承継の儀式(当時は「剣璽渡御の儀」という)が執り行われたのだが、当時の侍従によれば「手狭で何の準備もできていない」附属邸であっても、やはり崩御の直後に行われている。このことからも神器承継の儀式の意味や性格を知ることができるはずである。

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神器承継と皇室典範 [皇室]

 今月16日の朝日新聞デジタルの社説に、天皇の即位儀礼について何やら書かれているというので読んでみた。相変わらずの論調でうんざりさせられるが、気になった点を挙げてみる。
 ひとつは、戦後初となった平成の即位儀礼において神器の剣と曲玉を継承する儀式が国事行為として行われたことを、「神話に由来し宗教的色彩の濃い剣璽承継が、なぜ国事行為なのか」と疑問視している点である。言葉としては用いていないが政教分離の観点から、宗教性を問題としたいのだろう。しかし、そもそも天皇の存在が神話や宗教に基づいていることには触れていない。神話の世界観を離れて合理的に見るならば、神器に宗教性の本質があるのではなく、天皇が神話や信仰に基づいているゆえに、継承されている神器が神聖視されているのである。すなわち神器への疑問視は天皇の存在への疑問視に直結するもので、おそらくはその点をも言外に含ませているかと思われる。
 次に、この神器継承の儀式に女性皇族が参列していないことを「排除された」と表現し、先帝崩御の直後だから出席を求めなかったとする政府の答弁について「どれだけの人が納得するか。政府は時代にふさわしい姿を再検討し、考えを国民に丁寧に説明しなければならない」という。
 この儀式(剣璽等承継の儀)は皇位と神器の一体性を示すもので、まさに先帝崩御の直後、前回の場合は崩御の二時間後には儀式のための動きが見られている。周到な準備の下ではなく、哀しみの中を慌ただしく行われるのであり、身だしなみなど特に気を使わなければならない女性皇族の参加を見送ることのどこが「排除」で、誰が納得しないというのだろう。
 そして次に、「懸念すべきは、旧憲法を懐かしみ、天皇を神格化する空気が自民党内に根強くあることだ」という。天皇を神格化する「空気」とは何かというと、この社説の執筆者が挙げているのは次のようなことである。少し長くなるが引用してみる。

「最近も、天皇や皇太子の成年年齢を18歳と定める皇室典範の扱いが議論になった。天皇が未成年の場合に備え、摂政が公務を代行する期間を短くするための特例だが、18歳から成人とする民法改正案が成立すれば、この規定は不要になる。しかし保守派議員らの反発を踏まえ、典範改正は見送られそうだ。存廃どちらでも人びとの生活に影響はない。問題は、意味を失った規定を整理するという合理的な考えが退けられ、典範に手をつけるのは冒涜・不敬だとする言動がまかり通ることだ。戦前に重なる風景で、国民主権のもとに象徴天皇制があるという基本認識を欠く。危うい空気が漂うなかで進む代替わりに対し、憲法の原則や理念からの逸脱がないよう、目を凝らし続ける必要がある」

 一読して成年年齢についての規定と「神格化」とやらにいったい何の関係があるのか分かりづらいが、成人年齢の話については、皇室典範ではもともと天皇や皇太子は18歳で成年と定められ、一方で一般人の成人年齢を18歳に引き下げる改正案が提出される運びとなっている。この改正案に連動し、皇室典範の件の規定を不要として改正してはどうかという声が挙がったが見送られた、ということだ。
 この皇室典範改正の見送りを、典範への「冒涜・不敬だとする言動がまかり通」ったからとし、「戦前に重なる風景」であり、国民主権という「基本認識を欠」くもので、「危うい空気が漂」っている、というのである。
 しかし昭和二十二年に制定された現皇室典範は、三種神器についての規定がない。旧皇室典範にはあったのだが、現在は皇室の神聖性や宗教性が抑えられたものとなっており、「旧憲法を懐かしみ、天皇を神格化する」ような人間がたとえいたとしても、そんな人が神聖にして侵すべからずと崇めるような代物ではないはずだ。皇室典範という特別な法律が存在しているからには、それが神聖かどうかということではなく、民法改正に引き摺られて簡単に手が加えられるべきではないのであって、簡単に改正されることになればそれこそ危険ではなかろうか。そもそも本題は民法の改正で、皇室典範についてはあってもなくても構わない規定に過ぎないのである。
 改正が見送られたことに感じる「空気」を社説執筆者はたいそう危険視しているが、まさに空気を相手に戦っている滑稽な姿が浮かんでしまう。
 なお、以前にもここに書いたように、女性天皇を認めない現皇室典範は改正すべきだと個人的には考えている。と同時に三種神器は剣璽等承継の儀からも理解されるように、皇位と一体化しているものであることを根拠として、皇室典範に再び明記するよう改正すべきだと考える。かの社説執筆者はこのような意見を「合理的な考え」と見なして賛同してくれるだろうか。

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備えあれば非難あり [雑感]

 北朝鮮のテロリストが日本や韓国に潜伏していることの危険を語った研究者に対し、一部で(と思われるが正確なところは不明)非難の声が挙がっている。
 昨年、ミサイルが飛来したときの対応について滋賀県教育委員会が学校等に通知を出したとき、「戦争の危機を煽るもので子供に不安を与える」と教職員組合が抗議したという話を思い起こした。
 危機に対してどのように備え対処するかを教えるより、不安を与えないことの方が大事だとするのは、まるで健康のためなら死んでもいいといった冗談と同じ発想で正気とは思えない。こういう連中が火災避難訓練に対しても「火災に遭う不安を子供に与えかねない」と反対しているのならまだ一貫性はあるが、おそらくそんな愚かなことは主張していないのだろう。これは一部の(と思われる)連中が罹患している戦争アレルギーとでもいうもので、自身のみならず、他者の生命財産をおびやかす危険な病である。
 潜伏テロリストの危険に対する警鐘を批判するのは、某芸人が同性愛者のキャラを演じたり黒人俳優の風貌に扮したことへの批判と同じで、差別ではないものを差別だと騒ぎ立てる筋違いの言いがかりに過ぎない。
 某評論家が「韓国朝鮮系の子どもたちがどんな辛い思いをするか少しでも考えたのだろうか」と何故か子供を出しにして批判したのもやはり筋違いだ。危険への警鐘が差別に「つながる」という指摘なのだが、つなげることに差別意識が働いているのであって、つながる素材そのものの提供者には無関係な話である。素材の提供に配慮しろと言われても、たいていのものはつなげようと思えば何かにつながるものなのである。
 映画『ジョーズ』で、サメの出没を理由に遊泳禁止が求められるも、浜辺の観光に影響が出ることを恐れた有力者によってもみ消され、結果、多くの被害を出すことになる。そんな話も思い起こした。テロリストやロケットによる被害が杞憂に終わればいいが、かつて北朝鮮による拉致事件なんて嘘だと主張していた連中は、事が明らかとなっても誰も責任は取らないし、どうすれば責任を取ったことになるかも曖昧だ。もし仮に被害が発生したとして、件の研究者を批判している連中も滋賀の教職員も、責任を取ることはなく、取りようもない。おそらく、未然に防げなかった自国に外交努力が足りなかったと決めつけ批判するのだろう。

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