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暗パンマン [雑感]

 アンパンマンのアニメが不快な理由の、残り四点について。
 四つめは、ドキンちゃんである。多くの場合、バイキンマンの悪行を唆すのは彼女であって、同様に満面の笑みで何の罪もない者たちの命を奪いかねない行為に加担する。そしてバイキンマンは結局、ぶちのめされることになるが、だいたいにおいて彼女はそそくさとその場を離れるだけで許されるのである。軽い悪戯程度ならともかく、とてつもない犯罪行為の黒幕でありながら、おそらく女の子という理由によって痛い目にはあわされないという性差別があからさまなのだ。
 五つめ以降はアンパンマンに関することである。まずはよく指摘されることだろうが、自身の顔をちぎって他人に食べさせるという行為の異様さだ。また他のキャラでは、例えばどんぶりまんなどがバイキンマンに襲われて頭の中身を食べられたりするわけだが、とてつもないグロ描写に思えて仕方がない。余談だがどうしてバイキンマンはアンパンマンの頭部を食べようとはしないのだろう。いつも拘束することには成功しているのだから、その際に食べ尽くしてしまえばいいと思えるのだが。
 六つめは、新たな顔に変えられた後の、バイキンマンによって汚されたり潰されたりした顔はどうなったのかという不安感である。カビだらけのくずれたアンパンが転がっている様子が想起されてしまう。
 そして最後の七つめは、バイキンマンを退けた後によく見られる光景である。一件落着してジャムおじさんのパンや、その回の登場キャラが作った食べ物をみんなで食べて平和の回復が表現されるのだが、カレーパンマンなどを含めたキャラたちが楽しく食事をしている中、アンパンマンは卓に着かず、にこやかにその様を眺めているだけだ。
 まるで主人の食卓に同席できない下僕のようで、物悲しい。

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バイ金マン [雑感]

 アンパンマンというアニメがあまり好きになれない。
 子どもの頃から見ていれば大人でも慣れ親しんでいるのだろうが、自分が最初に見たのは成人後で、当初から現在に至るまで見るたびに何とも不安で落ち着かない心地に苛まれる。
 不快の原因をいま数えてみると、片手では足りなかった。長くなりそうなのでここではそのうちの三つの点についてのみ、書いてみる。
 一つはバイキンマンがよく行う悪戯の手口に、すぐに正体をばらすとはいえ、変装して他者になりすまし、悪行の限りを尽くして本人の評判を下げるということだ。
 このアニメだけでなく、他のドラマや映画でも、もちろん作り物だと分かっていてもこういう場面には心が痛む。共感性の心理というやつだ。ただし「地獄少女」のような作品だと、最初から陰鬱な話だと覚悟しているからか、さほど心は痛まない。おそらくアンパンマンの場合は、気楽に見られるはずの絵柄とのギャップによるのだろう。
 二つめは、上に悪戯と書いたが、どう見てもバイキンマンの行為は時として悪戯のレベルではないことだ。本気で殺しにかかっている。それもアンパンマンに対してだけでなく、ジャムおじさんやバタコさんにまで、嬉々として、ニタニタと笑いながら命を奪おうとする。狂気の沙汰である。これに対する不快も「進撃の巨人」のような作品とは違う、気楽に見られるはずの絵柄とのギャップだろう。
 そして三つめは、何度となくバイキンマンに生活の平和を蹂躙されながら、対策をまったく取ろうとしない精神薄弱的な世界であることだ。脅威をいったん遠ざけるだけで、かりそめの平和に満足するという、錯覚の中に成立している不安定な世界が舞台なのである。
 まるで、今の日本の社会で北朝鮮の挑発行為に理解を示す人たちを見るような心地だ。

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宗教と課税 [宗教]

 掲示板等に書かれているような宗教批判の文言は、ほとんどが単に宗教をよく知らない故の偏見と以前に書いたことについて具体例をもうひとつ。
 宗教法人に対して非課税の部分が多いことに批判的な意見が多いようだが、これは批判とすべき事柄ではない。なぜかというと、税を普通に課してしまえば、日本の伝統宗教の文化は多くが瓦解してしまうからだ。
 神社もお寺も、一部の大規模の組織を除いて、ほとんどが零細な法人であり、僅かなお賽銭やお布施だけでは「儲け」などまったく出ない。宮司の肩書きを持っていても普段は会社で働いて生活費を稼ぎ、祭のときにスーツから神主の装束となってようやく神社を維持していたりする。
 大規模で著名な神社なら丸儲けかというと、そうでもない。大きければそれだけ管理する摂社末社も多くなり、建造物の維持、人件費、祭祀執行の費用など莫大にかかる。
 金回りの良いきらびやかな一部の新宗教の姿をもって、それを非課税ゆえの宗教法人の姿だと思って批判するのは、大きな間違いである。新宗教には課税して伝統宗教には課税しないといった差別を設けるわけにもいかないであろうし、伝統宗教と新宗教の区別も難しい。ある仏教の僧侶が「新宗教はいけませんねえ」と嘆いているのを聞いて、創価学会とかのことを言っているのかと思ったら、鎌倉仏教のことだったという笑い話もある(うろ覚え)。
 宗教を隠れ蓑にして金儲けに勤しんでいる宗教者もいるのだろうが、政治家は賄賂を貰い、アイドルは枕営業しているのだ、といった決めつけと同じで、どの世界でも見られるように、そういう人もいるという程度のことだ。宗教思想を含めて儀式も建造物も、多くが文化的価値を持っていることを忘れてはならないだろう。

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狛犬知らず [雑感]

 有名な番組なので見ていた人も多いだろう。神社にやって来た外国人(アメリカ人か)が狛犬を目にし、これは何かと同行している番組ディレクターに聞いた。すると、「えっと、あのー、こまいぬ?いや、ちょっとわからない…」と困惑しながら答えた。
 そして別の神社で稲荷社の前にある狐の像を目にして、さっきと違ってどうしてこれは狐なのかと質問したが、やはり、わからないと返答していた。
 狛犬の歴史とか特殊な知識を問われたというわけではない。たとえこのディレクターが宗教に関心がなかろうと、あるいは別の宗教のみを熱心に信仰していようと、古くからこの日本のいたるところに当たり前のように存在している狛犬を認識していないとは、いったいどういうことだろう。
 いくらバラエティ番組とはいえ、公共の電波に乗る番組の制作現場の責任者がこんなにも無知では、われわれはいったい何を見せられているんだろうと考えてしまう。
 前回、某番組で「準じる」と「殉じる」を間違えていたことを書いたが、その番組は本を紹介する番組だったらしい。それなりに言葉に関わる知識が求められていながら、その程度のレベルであり、バラエティとニュースとドキュメンタリーが融合したような番組ばかりにあっては、問題はテレビ界全体にわたるものといえるのではなかろうか。

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違和感と多様性 [雑感]

 このブログでも何度か用いているが、何事かに対する「違和感」の指摘というものは、記事やエッセイを書くには実に安直な手法だなと思う。
 人の生きてきた環境も嗜好も思想も様々であり、世の中には違和感を覚えるものはいくらでもあるからだ。スポーツに興味がなければそれらに熱狂する者には違和感があり、高校野球を見れば学生としては少数派の坊主頭に違和感を、彼らが厳しい表情でプレーしても笑いながらプレーしても人によっては違和感を覚えるだろうし、応援団にもチアガールにもブラスバンドの演奏にも、負けて砂を集める習慣も変だと思えば変に思えるものである。
 他人が握ったおにぎりを平気で食べる者もいれば苦手に思う者もいるし、店で料理人が作った料理は普通に食べられても、他人の家庭で出された料理は苦手だったりする。
 家庭、地域、世代、文化等といった違いによって、当たり前と思うものもあればそうとは思えないものもあり、その中で自身が感じた違和感に指摘することの意味があることならいいが、それがどうしたとしか思えないものも、とくにネットの記事には多いような気がする。
 一方で、ある種の事柄に関しては、多様性や自由や権利を理由に、違和感の指摘が憚られている場合もある。前者との違いは必ずしも明確ではなく、場合によっては利害が絡む特殊な思想が原因だったりする。その特殊な思想そのものに対する違和感も、公に指摘されることは滅多にない。
 ともあれ、違和感の指摘に対する違和感を指摘してみた次第。

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被害者面 [報道]

 ネット上に、テレビはなぜネットのデマに躍らされるのか、というタイトルのニュース記事があった。
 しかし、もはや捏造の元凶をネットに押しつける構図そのものには説得力がない。騙されるテレビ側の無能さについての指摘は正しいが、ネットの悪とテレビの正義という前提が垣間見えるのは、やはり未だにテレビに対する信頼を疑っていないからで、悪意や無能の存在はネットでもテレビでも同じである。テレビのデマに躍らされているネット記事はいくらでもある。
 テレビ側の無能については実体験として承知している。詳しくは書けないが、一昔前の渋谷のチーマー然とした風体のディレクターに、いい加減なネット情報をあたかも自分の専門的な知識のようにカメラ前で話すよう要請されたことがあった。その際に知った制作者側のどうしようもない知性や品性に、ほとほと呆れかえってしまい、それ以来、かの番組を観ることはなくなった。
 先日、某番組のテロップで、「殉じる」とすべきところを「準じる」と出しているのを見た。それは出演者が語っている言葉だったが、本人に確認することもしていないわけだ。ADが打ち出したであろう文字をDが確認しなかったか、しても間違いと理解できなかったらしい。
 雑誌書籍などで誤植が出るのは編集者にとって恥ずべき事だが、テレビ屋にとってはそれほどでもないから、文字の確認作業は定着していないのだろう。映像と音にこだわっても、文字には無頓着では、いくらテレビとはいえ伝えることの基本がなっていない。所詮、その程度のメディアに過ぎないことは、最近はよく知られるようになったと思われるが、周知されるという程になるのはいつのことだろうか。

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肯定するものではありません [報道]

 心霊ものやUFO関連の動画を扱ったテレビ番組では、「心霊現象を肯定するものではありません」といったテロップが最近はつけられるようになっている。
 CMでも、トリックや非現実的なシーンの場合、「CM上の演出です」という説明文がわざわざ表示される。わかりきったことだがなあと白けてしまうが、そうしないと文句が寄せられたりするのだろう。
 しかし心霊系の番組の場合、世の中には霊能者や祈祷師として生計を立てている者もいるわけで、番組は彼らの立場を、はっきりと否定はしていないとしても、肯定はしていないわけだ。まあ、公共の機関としてはいたしかたないことかもしれない。
 が、「肯定するわけではない」ことを主張するのは、彼らの思想信条の自由を侵害するとまでは言わないとしても、なにやら胡散臭いものですよと決めつけていることになるのではないか。世の中には霊能者の類の者を詐欺師としか見ていない人も多く、確かに胡散臭い自称霊能者もいるとはいえ犯罪者でない限り、肯定はしませんよといちいち公共機関から評価される筋合いもないような気がする。
 パワースポットブームとやらであちこちの神社のご利益が紹介されても、別に「神霊の存在を肯定するものではありません」とか「ご利益を肯定するものではありません」などとは出ないのは、相手が宗教法人だからで、歴史や組織の有無が問題なのだろう。
 一方で、より公正でなければならない報道において、根拠のない野党側の言い分による疑惑ばかりたれ流すことは大いに批判されるべき事で、もちろん「疑惑を肯定するものではありません」と表示したとしても許されることではないわけだが。

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偏向批判 [報道]

 改造内閣について「お友達内閣という批判をかわす目的か」などという論評が、いくつかの局で同じようになされているのを見た。
 これが野党側による論評なら、理解できなくもない。とかく野党は与党の為すことについては批判的な言辞しか吐かないからだ。しかしこれが野党でもなく、また自民党に批判的な評論家でもなく、普通のニュースにおいて局のアナウンサーがこのようなことの書かれた原稿を読み上げるとなっては、いたく違和感を覚えざるを得ない。
 なぜなら、これまでの内閣がお友達内閣と批判されるべきものであることを正当とした前提となっているからで、こういう点においても、ニュース報道が公正性を離れ、野党側に偏した姿勢であることを示しているものといえよう。
 そもそも内閣のトップが、自身の理想とする組閣を検討する際に、気心の知れた人物を集めるのは当たり前ではないか。お友達云々という批判は実質的には批判たり得ていなくとも、なにやら批判的に発言されると、あたかも的を射た批判であるかのように一定の評価を持ち始めるのは、一連の森友とか加計とかの疑惑と称されるものにおける安倍批判と同類であろう。
 ところで、森友学園側が寄付でないものを寄付と偽造していたことが明確となったことに対し、総理側からの寄付があったとする疑惑(犯罪でもないのに疑惑と呼ぶのは野党マスコミ連合側の嘘だが、便宜上使っておく)を連呼していた連中は、何か言うことはないのか。

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参拝の仕方 [宗教]

 某神社の宮司が、参拝に際しては目を閉じて願い事をするのではなく、目を開けてするのが正しいと某テレビ番組で主張していたらしい。理由は、神職も祈祷において目を閉じることはないし、また相手を見て願い事を伝えるのが礼儀に適っているから、ということだ。
 これが神社本庁で指導されている参拝法かどうかは知らない。しかしそうだとしても、このような作法と根拠に妥当性はない。おそらくはその宮司の個人的な見解だろう。
 まず神職と参拝者を同列に考えるのがおかしい。神職は書かれた祝詞を読み上げ、所定の作法と工程をこなさなければならないから、瞑目していては務まらない。神と参拝者の中継ぎをする役割の神職を、参拝者と同じ位置づけにする必要はない。
 そしてなによりも、相手の目を見て話をするという礼儀は、あくまでも同じ立場において成立するものだ。今の世の中ではたとえ上司や先輩であっても目を見て話をするのが礼儀であろうが、それは同じ人間だからである。しかし参拝において人が対するのは神であって、決して同じ立場ではない。かつては同じ人間でも身分が違えば目どころか顔を見ることすら憚られていたわけで、それは神聖なものを直視してはならないという禁忌と同根だろう。一般に御神体がどのように奉安され、その理由が何なのか、かの宮司はよく考えてみればいい。
 宮司とか住職とかの肩書きを持っていても、たいして専門的な知識見識を有していない者は多い。問題は、そういった人物の意見を碌に調べもせずに安直にたれ流すだけの番組制作側のいい加減な姿勢にもあるわけだが。

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安倍総理叩きとUFO論争 [政治]

 題名に並べた二つの事柄は、一見すると何も関係がないように思えるが、実は面白い共通点がある。以下引用するのは某番組内での発言を要約したものである。発言者は科学ジャーナリストで、時期的に見て政治や報道に対する含みを持たせている意図はない。

(UFO情報を学術的に調査したコンドン委員会が「UFOは存在しない」と結論づけたことに、信じる側の人々は納得せずに反撥したことについて)
「科学は実験や観測のデータを使って研究するのがひとつの方法で、コンドン委員会が検討したのは、それまでに集まったたくさんのUFOの目撃情報だ。しかし目撃情報を後で検証しろといわれても、検証のしようがない。きっちりと検証しても、科学的な検証に値する事例はひとつもなかった。
『ない』ことを証明するのは悪魔の証明という。調べた結果、『こういう現象はありませんでした』といっても、もしかしたら他の条件ではその現象が成り立つかもしれないから、議論は無限に続いていく。したがって科学では『ない』ことを完全に証明することは難しい。
 ある一部の人たちは、UFOを宇宙人の乗り物であるというが、そういう人たちは自分たちでは証拠を持っていない。しかし国や軍は持っているのだから、それを出せと要求している。
 そういう人たちにとっては、『UFOが存在する』という答が出てこない限り納得しない。だからコンドン委員会がいくら真面目にレポートを出しても、必ず批判の対象になる。」

(米大統領直属でUFOの秘密機関とされるMJ-12による文書に偽造の疑いが強いことについて)
「なぜ偽造がおこなわれたのかというと、ロズウェル事件に物証はない。物証がないなら作ればいい、ということだ。呼び水みたいなもので、事件はあったのだから、誰かが本当の証拠を引きずり出してくれる、そのためには少しの嘘は許されるということで作ったのではないか。
 新たに文書が出てきても、今度こそ、という期待を持たせる。ある文書の嘘がばれても、『そこだけ嘘で、本物も混じっている』といえば、もう手が負えない。都市伝説は自己増殖して止まらない。新しい情報は肯定されがちで、簡単に騙されて洗脳されてしまう。」

 問題は、今のマスコミが率先して「UFO信者」側に立っているということだ。
 上記の発言のある番組は再放送だったのだが、その再放送の決定に、上記の発言をくんでの意思が働いていたのなら、少しはマスコミの中にもまともな人がいることが期待できるのだが。

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